第6話  影の過去





 翌日の朝、沢渡は自分の店に居た。

 FAXで得意先から注文が入っていた。ルーチンワークのように容易い仕事だったが、そのぶん儲けは少なかった。

 いつも加工を頼んでいる工場への発注書と製作図面を書き、FAXで送った。送信後、工場の担当者を相手に電話で仕様と納期の簡単な確認を済ませると、やることが無くなってしまった。

 月曜日の朝10時半である。事務所でぼんやりと壁掛け式の月めくりカレンダーを見ていたら、昨日のことを思い出した。

 石黒綾美という女の顔が目に浮かんだ。

 名状しがたい不思議な体験をしたが、一夜明けてみると非現実感だけが残った。あのままあの女にどこかへ連れ去られたりしていたら、もっと違った気分になっていたのかもしれないが、女があっけなく自分の前から立ち去ったので、何か夢でも見ていたのではないかという気がした。

 たぶんあれは夢だったのだろう。いろいろとストレスが溜まっていたので妙な白昼夢を見たのだ。2週間ほど前の都心の商店街や路地でのことも、昨日の喫茶店や滝でのことも、夢だったのだ。にもかかわらず、石黒綾美という女の存在は否定できなかった。あの女だけは現実に存在しているのだ。

 昨日のことは、志穂子には話していなかった。

 妻に隠れて見ず知らずの女と会っていたなどと口が裂けても言えはしない。それに何があったかをそのまま志穂子に言えば、夫の精神状態を疑った彼女がどんな行動に出るかわからなかった。

 不意に店の事務所の電話が鳴った。ナンバーディスプレイに表示された番号を見て沢渡は胃が重くなるのを感じた。西山だ。先月分の返済がまだだったことを思い出した。

 電話に出ると、案の定その件だった。

「困りますな。またですか」

 弱々しい声で西山は言った。いつものことだった。最初は臆病な子猫のように振る舞っているが、月々の返済が何度も滞ったり、こちらが返済を渋ったりすると頑丈な牙で空気を震わせるかのような物言いになる。

「すみません。今日中に振り込みます」

「まぁ無理せんようにね。うちもできればこんなことは言いたくないんですわ」

 3年前、沢渡は得意先から金属加工品の製造を請け負った。降って湧いたような大口の仕事だった。作らなければならない製品の種類も数も多く、材料費や加工賃を調達するための資金繰りに苦慮した沢渡は製造を依頼した常連の外注先の紹介で急遽、ある男から金を借りた。それが西山だった。

 沢渡の両親はすでに亡くなっていたので金の無心などできず、親戚をあてにするわけにもいかなかった。店の土地建物を担保にして法定金利に少しだけ上乗せするという条件で西山から金を借り、得意先へは納期通り、数も揃えて無事納品した。

 ところが図面上のミスがあったために得意先から作り直しを要求され、結果的に製作費は2倍になり、儲けが出なかったばかりか納期遅延のペナルティまで課された。沢渡はさらに西山から金を借り、最終的に金利を含んだ借金の額は1000万近くにまで膨らんだ。

 西山は外注先の近所にある喫茶店の経営者だった。初めて会った時には気さくで腰の低い中年男という感じだったが、何回か会ううちに目に見えない拒絶反応を覚えるようになった。どこか得体の知れないところがあり、西山が経営している喫茶店にガラの悪そうな連中が出入りしているのを沢渡は見たことがあった。

 借金はどうにか半分ぐらいまで返済することができたが、去年あたりから返済のために貯金を取り崩すようになっていた。その貯金ももうじき尽きてしまう。沢渡は切羽詰まっていたが、もしこれ以上は返済ができないなどと西山に言えばどんなことになるか想像するのが怖かった。

 沢渡は西山に今から振り込むということを伝えると、銀行へと出かけた。

 銀行のATMコーナーへ行き、念のために預金残高を見ると、あと二回分借金を返済すれば残高がほとんどゼロになる。それでも借金はまだ500万以上残っているし、しかもそれは毎月の経費を除外しての話だ。

 ATMの画面に映っている残高を見て、沢渡は急に寒気のようなものを感じた。そのままボンヤリと30秒以上も画面を見ていたら後ろに立って待っている若い男の舌打ちが聞こえた。

 あわてて西山あての振込を済ませ、ATMの前から立ち去った沢渡は銀行の駐車場に停めてある自分のライトバンに戻り、中に入ってドアを閉めた。

 沢渡は携帯電話のアドレス帳を開き、石黒綾美の電話番号を検索した。ディスプレイに11桁の番号が表示されると沢渡は迷わずに通話ボタンを押した。





 影に『回帰』するためのノウハウは実に単純なものだった。

 万物の本体である影のところへ自分の存在を回帰させるのである。極めて抽象的な話だが、その具体的なノウハウは「自分の体が影を動かしているのではなく、影が自分の体を動かしている」という意識のもとで日々を暮らす、という手軽なものだった。「誰にでもできるスーパーモデルのダイエット」「毎日数分で英語がペラペラに」――そういった謳い文句の情報商材のような胡散臭さと親しみやすさがそのノウハウにはあった。

 西山から電話で返済の督促があった日、沢渡は銀行の駐車場に停めた車の中で石黒綾美に電話をかけると、影のことについてもっと知りたい、影に『回帰』する方法を教えてくれと頼み込んだ。

 石黒綾美が言っていた言葉が耳に残っていた。傾きかけた店のことも、借りているお金のことも何もかもうまくいくようになる――石黒綾美が言う『回帰』に沢渡が興味を示したのは、そんな美味しい話に乗ったと言うよりも、袋小路に陥った自分の境遇から目を逸らし、非現実的な世界に逃げ込みたかったからだった。

 沢渡の頼みに快く応じた石黒綾美から『回帰』するノウハウを教わった彼はそれを忠実に実行した。常に自分の影から目を離さず、その影が自分の指や手足を動かしていると意識した。

 すると早くも3日目ぐらいから効果が出て来た。麻酔注射を打ってもらったときに感じる麻痺感――自分の体が自分のものであって自分のものでないような感覚。他人の肉塊のようなものになっていく感じ――が体全体に少しずつ生じるようになった。

 箕雄市の滝のそばで感じたのと同じものだった。麻痺感は初めは手や足、顔や胴体の一部など部分的なものだったが、影が自分を動かしていると感じながら日常生活を続けることによって次第にその範囲は広がっていき、ついには全身にまで達した。

 そこまでいくとさすがに気持ち悪くなったが、そんなふうに自分のものとは思えない肉体でありながら、細かい作業や激しい運動も可能だった。それに「影が自分の体を動かしている」という意識から遠のけば、いつでもごく普通の感覚に戻るので、不安になったり不便を感じたりすることは一切なかった。

 あまりに事がスムーズに進むので、またしても沢渡はこれは何か催眠術かトリックのようなものではないかという疑いを持ち始めたが、石黒綾美が言うには、誰でもこんな事ができるわけではなく、沢渡が『回帰可能者』であり、沢渡に『回帰』ができる素質があるからこそ可能だとのことだった。

 言わばというわけである。箕雄市の滝のところで石黒綾美が沢渡の影を制御し沢渡を影に回帰させることができたのも、沢渡にその素質があるからだという。回帰可能者ではない者には、どんなに干渉しても何も起きないのだった。







 沢渡は『回帰』の進捗状況を毎日のように電話で石黒綾美に報告していたが、そうやって彼女と頻繁に会話を交わすうちに、自ずと石黒綾美に対する沢渡の警戒感は親近感の方が上回り、一種の仕事仲間のような関係になっていった。

 志穂子には石黒綾美のことは黙っていた。「奥様には伏せておいたほうがいいですよ」などと石黒綾美は一言たりとも言わなかったが、「影によって万物をコントロールすることが可能だ」というようなカルト信者の妄想じみた話を夫から聞かされることは、夫が自分以外の女性と電話で連絡を取り合っているという事実よりも深刻な打撃を志穂子に与えるかもしれない。

 そう思うと志穂子には何も知らせないほうがいいのはもちろんで、また石黒綾美もそんな彼の意を察してくれているように沢渡には感じられた。

 そんなある日、石黒綾美は沢渡と出会うことになった経緯を話してくれた。

 25年前のことだった。彼女は病死した夫が残してくれた遺産で生活する未亡人だったが、夫が亡くなってから半年後のある日、夫の遺品を整理していたところ、その中に影への『回帰』について記した書物や資料を見つけた。

 それらの遺品の中には日記のようなものもあり、それによると夫は影への回帰を成し遂げた『回帰者』だったが、影に回帰できる者が自分以外にもいることを信じて、そういった仲間を探していた。やがて彼は石黒綾美という『回帰可能者』を見つけ、彼女と結婚したのだった。

「夫はそのことを打ち明けるのをずっと躊躇していたわ。生きている間、私にそのことを伝えようとはせずに、結局の」

 電話の向こうから聞こえてくる石黒綾美の声は沈んでいた。

「彼が書いていた日記にそのことが記してあった。無理もないと思う。あなたがそうだったように、妻のわたしにしてみればそんな非現実的な話をにわかには信じられないだろうし、知ればものすごく混乱してしまうと夫は考えたようなの。それに私と添い遂げたことに何か下心があったと思われるのを夫は何よりも嫌がっていたわ」

 夫婦の間に子供はいなかったものの、夫のことが忘れられなかった石黒綾美には再婚の意志はなかった。そんなとき、影への回帰に関する夫の遺品を見つけた彼女は、それらをすべて素直に受け入れ、自らが影への回帰を成し遂げることで亡き夫に報いようとした。

 そしてそれから3ヶ月後、石黒綾美は夫が遺した資料を元に『回帰』したのだった。沢渡と同じく「自分の体が影を動かしているのではなく、影が自分の体を動かしている」と意識する、というノウハウによって。






 『回帰者』となった石黒綾美は、自分と同じように回帰できる素質のある者つまり『回帰可能者』の仲間を見つけ出すことが夫の遺志であり、自分の使命だと思った。彼女は親類縁者、友人知人、行く先々で出会った見ず知らずの他人に至るまで回帰できる仲間がいないか探し回った。

 回帰可能者は回帰した時にそれぞれ固有の独特な輪郭の影を形作る。相手がそういう影の持ち主かどうか回帰者は判別することができるので、石黒綾美は事前に回帰可能者かどうか判別し、回帰することが可能だと確認した相手に限って、初めて自分の意図を伝え、理解してもらうことにした。

 そういう段取りで事を進めなければ、相手はこちらの行動を精神異常者による妄動か、過激なカルトの信者による入信の勧誘とみなしてしまうだろう。そう考えた石黒綾美は、その段取りに沿って同胞探しを始めた。

 しかし彼女の同胞探しは難航を極めた。回帰可能者を求めて、おびただしい数の人間と会ったがいずれも徒労に終わった。それでも石黒綾美はあきらめず探し続けた。

 そしてあの日――大阪府の都心にある商店街で回帰可能者を探していた石黒綾美は影に『回帰』しながら雑踏の中を歩いていた。影に回帰した状態でなければ回帰可能者を探知する感覚を発現できないためだった。

 人混みの中を歩く石黒綾美の影は蜘蛛のような形に変異していた。回帰のレベルをさらなる深みへと沈めていった彼女の視界からは彩度が失われ、派手な色と模様のファッションで歩く若い男女や極彩色の店舗看板が、モノトーンになっていた。白黒映像が視界を覆う中、石黒綾美は傍らを歩く通行人の影に注意を向けていた。

 影は行き交い、立ち止まり、語り合っている。モノクロームの視界の中で何の変哲もない人間の影が石黒綾美のそばを通り過ぎていく。今日も駄目だった。今日も会えなかった……これまで何百回と繰り返されてきた虚脱感がまた胸を覆ったとき、彼女はそれを見た。

 中年の男がこちらに向かって歩いて来ている。その男の影には他の人間の影には無い存在感があった。他の人間の影が「黒」なら、その男の影は「漆黒」だった。艷やかさを帯びた男の影は、上に他の人間の影が重なっても、鮮明に判別できる。

 しかもその影には回帰可能者のメルクマールである独特の輪郭があった。普通の人間にはその男の影は単なる黒い影絵にしか見えない。だが石黒綾美の視界において、その男の影の輪郭は普通の人間とは明らかに異なるものとして映っていた。

 それは爬虫類のような形をしていた。石黒綾美は自らの影を伸ばし、その男の影に接触した。

 男は自分が『回帰可能者』であることを自覚していないらしく、接触されても無反応だった。まだ『未回帰』なのだ。もし男がすでに『回帰者』だったなら、何らかのリアクションか拒絶反応のようなものがあるはずだった。

 石黒綾美はそのまま男の影を制御し、彼を自分の後を追うように歩かせた。ロボットをリモコンで動かすように男を歩かせながら石黒綾美は興奮していた。これまで決して見つけることのできなかった『回帰可能者』に出会えたのだ。

 しかし落ち着いて行動しなければならない。

 路地に男を連れ込み、どうしようか思案した。性急な行動は単純で致命的な破綻をもたらす。石黒綾美はいったん男をことにした。だが手放すわけではない。

 彼女は男の影の中を覗いた。

 動揺し、混乱している男の意識があった。男の考えていることや感じていることが手に取るように分かる。だがその奥には無限に深く、果てしなく広い暗黒が居座っていた。

 そこには今の男の意識上には現れていないものが沈んでいた。その中から石黒綾美は『回帰者』にしか使えない技術を使って必要なものを取り出し、自分の影の中に保存した。それらは鮮明かつ強固に保存されるため、決して忘れることはなく、またいつでも思い出すことができる。

 男の名前は沢渡和史。住所や職業、携帯電話の番号とメールアドレス。妻の名前、パートタイムの勤務先に出かける妻の後ろ姿。西山という痩せて無精髭を生やした男の顔。多額の借金……

 石黒綾美は男の影から退いた。身体の自由を取り戻した男は顔を引き攣らせて後退りしながら彼女の前から逃げ出した――






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