第5話 影の告白
1
その爬虫類のような影は沢渡の身体と同じぐらいの大きさがあった。
色は薄いが輪郭のはっきりした鮮明な影だった。爬虫類の尻尾にあたる部分が沢渡の体から伸び、その先が胴体となってさらに四本の肢と首が伸びていた。全体的に丸いフォルムなので同じ爬虫類でもトカゲと言うよりかはヤモリのように見える。子供が見たら泣き出すほどの気味の悪い影だった。
しかし滝の見物客たちは流れ落ちる水や美しい紅葉を愛でることに夢中で、地面に映った不気味なヤモリと蜘蛛の影のことなど眼中にない。橋の上で佇む沢渡と石黒綾美の姿も、中年男女のカップルが景色に見とれて立ち尽くしているようにしか見えていなかった。
―― 橋の向こうに楓の樹がありますよね。わかりますか ――
沢渡と石黒綾美が立っている橋から少し離れた場所に紅葉した大きな楓の樹がある。血の滴るような色をしたおびただしい数の葉が枝にまとわりついていた。
―― あなたの影でその樹の影に触れてみてください ――
沢渡は素直に石黒綾美の指示に従うことにしたが、自分の影でどうやってあの樹の影に触れることができるのかわからない。その疑問の答えが即座に沢渡の脳内で石黒綾美の声となって沁み渡った。
―― 簡単ですよ。ただそう思えばいいんです。今のあなたは影に『回帰』していますから、影そのものと言っていい状態です。あなたの思う通りに影は形を変え、動きますよ ――
全身が他人の肉体になったかのような麻痺感を覚えながら、恐る恐る沢渡はヤモリの右前肢にあたる部分が伸びる様子を思い描いた。するとヤモリの右前肢の影が楓の樹の影に向かって流れていく。流れた影が樹の影に触れると、引っ張られるような、あるいは逆にこちらへ引き寄せるような奇妙な膠着感があった。
肉体に対するリアルな感覚が失われていたため、自分の意志で動いた影に対して沢渡は自分自身の手足よりも鮮明な生々しさや親近感、現実感を覚えた。主物と従物の関係が逆転していた。今、沢渡の肉体の方が彼の影のようなものだった。
―― いいですよ。それじゃあ次はあなたの影でその樹の影を動かしてみてください。今、あなたの影は樹の影を制御できる状態にあります ――
沢渡は膠着感の先にある楓の樹の影を動かそうと試みた。今の沢渡は影そのものだった。影そのものを通じて彼は楓の樹そのものを掴んでいた。
掴んだ樹を揺すってみる。すると徐々に楓の枝の影が動き始めたように見えてきた。同時に樹の方も枝が微かに揺れ始めた。沢渡の影によってコントロールされた楓の樹の影がその従物である楓の樹そのものを動かし始めたのだ。
―― その調子、その調子 ――
石黒綾美が楽しそうに言う。枝の動きはますます大きくなり、それに比例するように楓の葉音が聞こえてきた。やがて目に見えないウエーブに乗って数本の枝が大きく蠢き、紅葉した葉が何枚も乱れ落ちた。そばにいた観光客の少年が目を丸くしてそれを見ている。他の観光客も風がないのに大きく波打つ楓の枝の異様さに気づき始めた。
―― 気づかれるといけませんから、もうやめてください ――
脳内で響いていた石黒綾美の声が鋭さを帯びた。沢渡は掴んでいた楓をあわてて放した。彼の影は樹の影から分離して縮み、ヤモリの前肢は本来の長さに戻ったが、樹の枝の動きはいっこうに治まらず、激しくなる一方だった。
樹の影の方を見ると同じように激しく揺れている。自分の影を引き離す前に樹の影に動きを止めるように指示しておかなければならなかったのだろう。ザワザワと音をたてる楓の樹を見ながら沢渡は思った。何も指示せずに樹の影から離れてしまったために、楓の樹が暴走しているのだ。
なすすべもなく棒立ちになっていた沢渡の脇を矢のように伸びた細い影が楓の樹の影に接触し、その直後に樹の枝は動きを弱め始めた。伸びた影は石黒綾美の影だった。彼女の影の8つの肢のうちの一つが樹の影に取り付いて動きを押さえつけたらしい。数秒後、楓の樹はおとなしくなり、その影も動きを止めた。
赤く色づいた楓の葉が宙に舞っていた。観光客たちは風のせいかと腑に落ちた様子で談笑していた。舞っていた紅葉が地面にすっかり落ちてしまうと彼らは楓の樹への関心を失ってしまった。
2
「なかなか筋が良いですよ。飲み込みも早いですね」
石黒綾美が嬉しそうな笑顔を見せ、脳内の声ではなく肉声で沢渡にそう言った。さっきの自分の失態を彼女から叱責されるのではないかと思っていた沢渡はホッとすると同時に思わず顔がほころぶのを感じた。
ふと気がつくと全身の麻痺感は失くなっており、地面には蜘蛛の影もヤモリの影も見当たらなかった。スマホやケータイで滝の写真を撮り、缶コーヒーやたこ焼きを飲み食いする観光客たちの影と同様、沢渡と石黒綾美の何気ない影があるだけだった。
急に沢渡は何か自分がとてつもない悪事をしでかしているような気分になった。だが同時に奇妙な高揚感も感じ、軽い興奮状態になった。無理やり悪事に加担させられたのに、その悪だくみの話を面白がっているような気分だった。
心のどこかでまだ疑っている部分はあった。とどのつまりはやっぱり手品か催眠術じゃないのか。しかし仮に石黒綾美の言うことが本当だとしたら、自分がいるこの世界には今まで自分が認識したことのないような仕掛けが隠されていたことになる。しかもその仕掛けについて、この女は知悉しているのだ。そう思うと興奮状態はなおさら高まった。
石黒綾美は「少し歩きましょう」と言って沢渡を促した。人が大勢いる滝のところから沢渡と石黒綾美は離れ、樹木が生い茂る川沿いの道を歩き始めた。人影もまばらな道をしばらく歩き、林の中に入った。沢渡と石黒綾美以外に人の姿は無い。
歩きながら石黒綾美が言った。
「さっきはわたしが『回帰』のお手伝いをしたわけですけど、このぶんなら思ったよりも早く沢渡さん自身で『回帰』できるようになるでしょうね」
「これは昔から伝わっていたことなんですか。その……いわゆるオカルトや魔法のたぐいとして……」
沢渡の石黒綾美に対する言葉遣いは敬語に戻っていた。しかしそれは最初の頃のような警戒感を介したものではなく、文化教室の生徒が講師に尋ねるような気軽さと敬意を含んだものだった。
「そうよ。でも、わたしが知ったのは25年ほど前ですけど」
石黒綾美は立ち止まると遠くを見るような目で言った。
木々の間から差し込む夕暮れ近くの日差しが彼女の顔をオレンジ色に染めている。さっきまで沢渡の目には石黒綾美は同年代の中年女性として映っていたが、夕日のせいか今は高校の部活を終えて帰宅する途中の少女のように見えた。
「影についてはまだよくわからないことがたくさんあるのよ」
枯れ葉に埋もれている自分の足元の影を一瞥した石黒綾美は、焦点の定まらない視線をこちらに向けながら言った。
「わたしは仲間が欲しいんです。影について一緒に語れる仲間が」
急に石黒綾美の目が弱々しくなり、沢渡から目をそらすようにして言葉を続けた。
「あの日、わたしは仲間を探していた」
沢渡は彼女の横顔を見ながら話を聞いた。
「このことについて理解してくれる人をね。ただ、理解してくれるだけでは駄目なの。影に『回帰』できる人が必要なんです。誰でも良いというわけじゃない。影に『回帰』できる素質があり、影に『回帰』する意志のある人。そうでなければ、私の話すことは単なる誇大妄想や精神異常者の幻想としか思われない。私と同じように影に回帰できる『回帰可能者』であり、そのことに興味のある人が必要なんです。そんな人をこれまで長い間探し続けたわ。25年間も。でもようやく、そんな人に出会えたような気がする」
石黒綾美は上目遣いで沢渡を見た。助けを求める小動物の視線だった。
「あなたが必要なんです」
オレンジ色の日差しに濡れた顔で石黒綾美は沢渡を見つめていた。
「今日はここで失礼します。驚かせたりしてすみませんでした」
石黒綾美は頭を下げた。落ち葉を踏みしめる音を響かせながら、彼女は沢渡の前から立ち去った。
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