第4話  それぞれの影





 何やら出鼻をくじかれたような気がして沢渡はため息をついた。ウエイトレスが持ってきたコーヒーカップに砂糖とミルクを入れ、適当にかき混ぜた彼は甘ったるい香りのする温かい液体を口に含んだ。

 さっきまでの勢いが消え失せていた。この女に会いにノコノコやって来たことを後悔しながら、沢渡はコーヒーを飲み下した。

「とりあえず話を聞いていただけませんか」

 懇願口調で女は言ったが、沢渡には恫喝に聞こえた。彼は女から目をそらした。

 目をそらした先に、喫茶店のフロアがあった。

 クリーム色の木目調でリノリウム張りの床だった。

 窓から入ってくる午後の陽射しが沢渡と女、そして二人が向かい合っているテーブルの影を、黒いイタリック体の文字のように映している。

 突然、女の頭の影が裂けた。裂けた中から何かが出て来るかのように動きながら影は形を変えた。

 それを見た沢渡の脳裏に路地で女と向き合っていたときの記憶が蘇った。裂けた影が蜘蛛のような姿に変わったのである。

 恐怖を感じて立ち上がろうとした時、蜘蛛の影が肢を一筋伸ばして沢渡の頭の影に触れた。

 沢渡は動けなくなっていた。


―― あなたの影を制御しました ――


 女の声がした。女の声は沢渡の脳内で直接響いていた。逆に喫茶店の中にいる他の客の話し声や厨房の方から聞こえる洗い物の音、店内に流れているコルトレーンのバラードも聞こえなくなった。あるのは女の声だけだ。


―― 今、あなたの影はわたしの影が制御しています。そのため、あなたの肉体もわたしに制御されているんですよ ――


 女の影と沢渡の影は一筋の細い影で繋がっていた。女は少し哀れむような目つきでこちらを見ながら、沢渡の頭の中で奇妙なことを喋っていた。

 沢渡は視線を巡らして喫茶店内を見渡した。手足は動かせないが首から上は動かすことができるようだった。

 店内にはいろいろな人間が居た。若い男女、主婦と思しき三人連れ、ハイキングに来たらしい登山服を着た老夫婦、トレイにコーヒーカップを乗せて運ぶウエイトレスの女の子。歩き、喋り、コーヒーを飲み、ケーキを食べ、世間話をする彼らから音のたぐいは一切聞こえない。沢渡の網膜の画面はミュートになっていたが、心臓の鼓動はガンガン鳴り響いていた。

 沢渡の声帯は干からびてしまっていた。喋ることは愚か、声を出すこともできない。女に固められてしまったせいなのか、恐怖による硬直なのかはわからなかった。





 沢渡は女の方にすがるような視線を向けた。


―― 何を言ってるんだ? 影を制御したって、どういうことなんだ? ――


 それは沢渡の脳内に湧いた疑問と問いかけだったが、それが言葉を介さずにダイレクトに女に伝わる感触があった。そしてそれは確かな感触だった。女が沢渡の脳内で彼の問いかけに答えたからだ。


―― そうですね。いきなりそんなことを言ってもわかりませんよね ――


 女は苦笑しながら、沢渡の脳内で語り始めた。


―― この世のありとあらゆるものはなんです。影というと、頼りなくて儚くて現実感のないものですけど、本当は影の方が本体で、影の元になっている物の方が影のようなものなんです ――


―― 影が……本体? ――


――たとえば地面に映った自分の影を見ているとき、手足を動かすとそれに応じて影も動きますよね。大きくなったり小さくなったり、斜めになったり平たくなったりしますよね。あれは私たちが影を動かしてるんじゃないんです。実は影が私たちの身体を動かしているんですよ ――


 女の言っていることは眠っているときに見る夢の世界こそ本当の世界であって、目覚めているときに生活している世界の方が虚構の世界だと言っているのと似たような話なのだろう。だが、そんな突拍子もないことなど沢渡にはとても信じられなかった。


―― 馬鹿な。影の方が本体だなんて ――


 沢渡がある程度の関心と理解力を示したので、女はさらに説明を続けた。いわく、影とその元になるもの――これは、むしろ影の方が元になる側だから、影とその従物ということになり、たとえば人間とその影との関係で言えば、人間の行動や思考はすべて影が司っているというのだ。人間ではなく影の方こそ人間の存在そのものであり、自我だというわけである。


―― 影が万物の本体ですから、その影を操ることによって、この世のあらゆるものを掌握し、森羅万象に影響を及ぼすことができます。あなたの身体を動けなくしたのも、今こうしてあなたの意識に直接話しかけているのも、そういうメカニズムに基づいてわたしが影を操っているからなんですよ ――


 女の言うことは、ある程度の道理は通るような気がした。しかし到底信じられない話だった。沢渡はこの期に及んでも、今の状況について催眠術か手品の可能性を疑っていた。


―― 催眠術でも手品でもありませんよ ――


 そう言って女は即座に沢渡の疑念を否定した。女の言葉を信じたわけではないが、冷たいものが沢渡の背筋を通り抜けた。女の言うことが本当なら、女は沢渡の心臓の鼓動を停止させて息の根を止めることができる。あるいは沢渡をビルの屋上から飛び降りるように仕向けることもできるだろう。

 さっきから周囲の一切の音が聞こえないのも、聴覚をコントロールされているからなのかもしれない。どうやら女は影を通じて沢渡の五官を操り、感覚を自由にコントロールできるらしい。おそらく視力を奪って目を見えなくすることも可能なのだろう。


―― どうだっていい。とにかく、僕の身体が自由に動くようにしてくれ! ――


―― 騒いだり暴れたりしないって約束してくれますか。わたしもこんなことはしたくなかったんですけど、こうでもしなければお話を聞いていただけないと思って。ごめんなさい ――


―― わかった。約束する ――


 沢渡は固い表情を見せる女の顔を見つめながら、脳内で首を縦に振っていた。それからしばらく二人とも黙り込んでいたが、唐突に女が言った。


「そろそろここを出ましょうか」


 女の声が聞こえた。沢渡の脳に直接話しかけるのではなく、女が自分の唇を動かして声を発したのだった。

 ひどく遠いところから聞こえる木霊のような声だった。





 紅葉が綺麗だった。

 気象庁の予報では今年は異常気象のせいで紅葉の見頃が全国的に一週間から10日ほど早く、11月の中旬になっているとのことだった。今まさに紅葉真っ盛りなのである。

 沢渡は女――石黒綾美とともに滝へ向かって歩いていた。

 箕雄駅からハイキングコースを登っていくと、行き着く先に観光スポットとなっている滝がある。色鮮やかな紅葉に覆われたハイキングコースを歩く観光客たちの中に沢渡と石黒綾美は居た。

 喫茶店で石黒綾美に身体を固められていた沢渡は、「そろそろここを出ましょうか」という声を聞いても、すぐにはその意味を理解することができなかった。

 それが脳内で響いた声ではなく石黒綾美が唇を使って出した肉声だったこともあるが、自分を動けなくしている呪縛が解けていたことに沢渡自身気づいていなかったのである。伝票を持って立ち上がり、レジの方へと向かう石黒綾美を見送っていた沢渡は、振り返った彼女が女子高生のような仕草で手まねきしているのを見て、恐る恐る立ち上がってみた。彼の動きを封じるものは何もなかった。

 喫茶店の外に出た石黒綾美が「いっしょに来てください」と言ったとき、沢渡は逃げることを考えたが、この女が彼の脳内で語った話が本当なら、この前のように沢渡を強制的に連れ歩くことも可能だろう。そう思った沢渡はやむをえず石黒綾美のあとについて行くことにしたのである。

 沢渡は彼の近くで歩いている観光客たちの方を見た。

 家族連れの行楽客のはしゃぐ声が聞こえた。中国人観光客が交わす意味不明の言葉。長年連れ添った仲睦まじそうな老夫婦の話し声や若者たちの談笑。そこには沢渡の「助けて!」という場違いな声の入り込む余地は無さそうだった。

 だがもし仮に自分がこの場で死物狂いの抵抗を試みたら、さすがにこの女としても困るのではないか。沢渡はそれとなく地面に映る自分の影に目をやった。

 ハイキングコースの地面に映る彼の影には、トートバッグを肩から提げて数歩先を歩く石黒綾美の影はまとわりついていなかった。女は自分の影の形を自由自在に変え、しかもその影を伸ばして沢渡の影に触れて彼の動きをコントロールすることができるらしい。だが今、女の影は沢渡の影に触れてはいない。沢渡は思った。今、大声を上げたり誰かにしがみついたりすれば、この女はうろたえて何も手出しできないかもしれない――

 ――いや、やっぱり駄目だ。沢渡は断念した。いざとなれば女は自分が助けを求めた人間もろとも影を操ってだろう。無駄なあがきはやめた方がいい。

 そう考えるとむしろ逆に気分が落ち着いてきた。すぐそばに誰か人がいるということも安心材料になっていた。石黒綾美と名乗る得体の知れないこの女と二人きりではなく、第三者が常に近くに大勢いるという状況が沢渡の恐怖感や危機感を和らげていた。むしろ石黒綾美はこちらが動揺して取り乱さないように配慮して、こういう状況を選んだのではないかと気づくほど沢渡は精神的に余裕が生じていた。





 半時間近く歩いただろうか。滝が見えてきた。

 観光客が滝の周囲にある休憩所や滝から伸びている川にかかった橋の上で、白く落下する水の流れを携帯電話やスマホのカメラで撮影している。

 滝にはかすかに虹がかかっていた。

 石黒綾美が赤い欄干に挟まれた橋の真ん中で立ち止まった。沢渡も歩くのをやめて立ち止まる。

 秋の午後の陽射しが石黒綾美を照らしていた。

 灰色のカーディガンの下にまとっている丸首セーターの胸のあたりが大きく盛り上がっていた。意外と豊かな胸だった。キュロットスカートもサイズが合っていないのか、少しヒップラインがくっきりしすぎているような気がした。

 石黒綾美の足元には、そんな蠱惑的な輪郭とは対照的な四角い影が伸びていた。そのそばに背の丸まった老人のような沢渡の影がうずくまっている。

 不意に、石黒綾美の四角い影が羽ばたくような動きを見せた。

 近くを通り過ぎる者が何人かいたが、気づく者は誰もいなかった。

 羽ばたく影の左右から4本ずつ肢が伸びた。大型犬ぐらいの大きさの蜘蛛の影が地面に広がった。

 左右4本の肢のうちの一本ずつが素早く沢渡の影に向かって伸び、首を絞めるような格好で突き刺さった。


―― わたしは初めてお会いしたとき、あなたのことを『回帰可能者』だと言いました。覚えてらっしゃいますか ―― 


 石黒綾美の声が脳内で響いた。さっき喫茶店に居たときとは違って周囲の音が無音ではなかったため、石黒綾美が肉声で喋っているように聞こえるが、実際には彼女の声は沢渡にしか聞こえていなかった。


―― 『回帰』とは影によって万物をコントロールすることが可能な状態になることです。元来、人間を含めてこの世のありとあらゆるものの本体は影であり、影がすべてを司っています。そういう根源的な状態に戻るという意味で『回帰』と呼ぶんですよ ――


 それから石黒綾美はしばらくのあいだ沈黙していた。その沈黙の意味がわからず、沢渡が不安に感じ始めたとき石黒綾美は唐突に言った。


―― 今からその『回帰』を実際に体験してもらいます ――


 突然、今まで感じたことのない奇怪な感触が沢渡の全身を駆け抜けた。

 歯科医院で抜歯のときに麻酔注射を打ってもらうが、そのときの麻酔薬が注入されるにつれて皮膚や筋肉が鈍麻していく感覚に似ていた。

 自分の身体が他人の肉と骨になっていくような奇怪な感覚に全神経が占領されていく。手足は動かせるようなのだが、動いた途端に全身が崩れていきそうで何もできない。生暖かい肉塊と化していく自分自身を意識しながら、地面に視線を向けると徐々に形を変えていく自分の影が見えた。


―― 今、わたしの影があなたの影を制御して『回帰』へと導いています ――


 沢渡の影は5つに枝分かれして伸びていった。石黒綾美の影のように蜘蛛の形になるのかと沢渡は思ったが、5つに分岐したうちの一つは重力に逆らって上方に落下しようとする水滴になった。

 残りの4つはそれぞれ斜め方向に伸び、先端が丸く膨らみ、さらにそれらは5つの小さな芽を出した。

 沢渡の足元から巨大な爬虫類のような影が伸びていた。石黒綾美の声が頭の中で聞こえた。


―― ほら、見てください。これが『回帰』です ――





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