第3話  影の入口





 箕雄市は観光地として有名な人口13万人の街だった。

 都心から直線距離にして25キロほど離れているが、沢渡の住む豊永市という街からは車を使えば30分以内で行ける距離にある。

 その箕雄市の中心部に位置し、市名がそのまま駅名になっている私鉄の駅へ沢渡は自家用を兼ねた営業用のライトバンを運転して向かった。

 「シャンブロウ」という名の喫茶店は駅前のロータリー沿いにある商店街の中にあった。

 沢渡は車窓越しにその位置を確認すると、ロータリーの真ん中にある円形の植え込みのそばに車を停めた。近くに交番があるが、植え込みの周囲には他にも数台、車が駐車や停車をしていて警官が声をかけてくる様子はない。もし警官が何か言ってきたら車を動かすつもりだった。

 約束の2時よりも1時間以上も早い到着だった。沢渡は目立たないように顔を下に向けて自宅から持ってきた文庫本を読むふりをしながら、シャンブロウの方を見張った。

 馬鹿げたことをしているような気がする。

 自分は時間とガソリンを浪費してくだらないお遊びをしているのではないか。

 あの晩、眠りかけていた自分に冷水をかけて目を覚まさせたメールの主――石黒綾美というあの女が何者で、なぜ自分の名前やメールアドレスや借金のことや店の経営状態を知っているのか、何を企んでいるのか沢渡は確かめるつもりだった。

 しかしそれなら、そのメールに返信して尋ねればいいだけである。おまけにメールには御丁寧にも、あの女の携帯電話の電話番号まで記されてあった。沢渡の携帯電話で11桁の番号を押せば、もっと早く確かめることができる。

 だが沢渡はメールや電話で連絡をしても、あの女がどうやってこちらの個人情報を手に入れたのかはわからないような気がしていた。

 ましてあの女が何者かなどわかるはずもあるまい。

 メールでは石黒綾美と名乗っているが、おそらく偽名だろう。そんな相手が電話で本当のことを喋るとは思えない。

 とはいえ放置しておけば、もっと面倒なことになる予感もする。相手はこちらの個人情報を詳しく知っているのだ。

 多少の危険は伴うが女に直接会って話をしようと沢渡は思った。路地で女は人生が好転するとか何とか言っていたようだが、どうせ他愛もない投資関係のセールスか宗教の勧誘だったにちがいない。女が知っていた自分の個人情報も名簿業者から得たものだろう。それを確認し、相手の勧誘をきっぱり断るだけの話だ。

 身体を固められたり歩かされたりしたのもどうせ催眠術かインチキ臭いトリックを使ったに過ぎない。そんなふうに事の次第がはっきりすれば一息にケリがつく。メールや電話など、回り道になるだけだし、かえって言葉巧みに言いくるめられてしまうかもしれないだろう。

 ただし、あの女がガラの悪い男と一緒に来たりしたら即座に帰るつもりだった。腕力や修羅場に自信のない沢渡には、荒っぽい連中と渡り合うことなど到底不可能だった。だからこそ1時間以上も早く先回りをして様子をうかがうことにしたのである。

 メールで指定されていた15日は、あの女に出会った日と同じく日曜日だった。よく晴れた日で駅前界隈は行楽客で賑わっている。紅葉で有名な山へとつながるハイキングコースが駅前から伸びていて、人の行き来が激しい。

 結局、沢渡はあの女のことを志穂子には話さなかった。初対面の女がなぜかこちらの名前を知っている。ケータイのメールアドレスまで知っていた。

 こんなことをそのまま妻に伝えて夫婦間におかしなさざ波を立てるのは愚の骨頂だ。

 志穂子は今日もパートで出かけていた。レストランの厨房で調理補助や皿洗いをするのが彼女の仕事だった。妻が食材を刻んだり食器を洗ったりしている一方で、夫がこんなふうに探偵の真似事めいたことをしているという状況に後ろめたいものがあったが、今さら引き返す気にはならなかった。

 沢渡は女が姿を見せるのを待ち続けた。





 2時少し前、あの女が駅から出てくるのが見えた。

 あれから2週間も経っていたのに、沢渡は顔をひと目見ただけでその女があのときの白いワンピースの女であるということがわかった。

 女は紺色をしたジーンズ地のキュロットスカートを履き、黒い丸首セーターに灰色のカーディガンを羽織っている。

 この前とは違ってカジュアルで地味な服装だった。服装の印象が全く異なるのだが、沢渡は彼女が石黒綾美と名乗っている女だと確信していた。

 女は白いトートバッグのようなものを肩から提げていた。まっすぐ「シャンブロウ」の方を目指して歩いていく。

 女が喫茶店に入ったのを見計らって、沢渡は車を発進させた。

 コインパーキングを探したが車で訪れている観光客が多いせいか、なかなか空きが見つからない。やっと空きを見つけた時は2時15分過ぎになっていて、しかもそこはシャンブロウまで歩いて15分はかかりそうな場所だった。

 だが沢渡は焦っていなかった。

 女の姿を実際に目にした時、気後れがしたのだ。急に自分がオレオレ詐欺に引っかかろうとしている哀れな年寄りのように思えてきた。これからあの女と会って話をするのがとてつもなく大変な苦行で、なおかつ危険な冒険であるように感じられた。だから時間に遅れたせいで女が諦めて立ち去っていたとしても構わないとさえ思っていたのだ。

 ヘタレの極みだった。

 どうせ自分が来ないと思って女はもう喫茶店を出て行ってしまっただろう。沢渡はむしろ余裕綽々とした歩調でシャンブロウへと向かい、その喫茶店の入口の前についた時は2時半を回っていた。

 そのため入口の自動ドアの前に立った時、開いたドアの向こう側で奥のボックス席に座っているあの女がこちらに向かって微笑みかけてくるとは、これっぽっちも思っていなかった。

 厳寒の海の水を見て立ち止まる寒中水泳初心者の気分だった。沢渡は一瞬、喫茶店の中に入るのをためらった。しかし後ろから若い男の二人連れが続いて中に入ろうとしていることに気づき、沢渡は仕方なく前へ進んだ。

「お一人ですか?」

 レジのそばに居る高校生のアルバイトのような若いウエイトレスが尋ねた。「あ、いや、連れが…」と沢渡が曖昧な返答をすると、あの女が手を振り、ウエイトレスは沢渡の視線の先に手を振る女をみつけて彼を案内した。

 店内は広く、客は七分ぐらいの入りだった。観光客がよく利用する店のようだ。喫茶店というよりかはカフェだった。静かなジャズのBGMが流れている。

 ウエイトレスに案内された沢渡は石黒綾美とメールで名乗っていた女に向かい合って腰を下ろした。沢渡が黙っていると女は沢渡の分だと言って勝手にホットコーヒーを注文し、ウエイトレスを退がらせた。

「うれしい。来てくれたんですね」

 女は馴れ馴れしく言った。この前のミステリアスで上から目線な雰囲気とは異なり、あまりにもフレンドリーな女の態度に対してどんなリアクションをすればいいかわからず、沢渡は小さくうなずいた。

「石黒綾美です。どうぞよろしく。ここのコーヒーは美味しいんですよ。豆がいいんですって」

 屈託なく喋る女に対して沢渡は主導権を握られているような苛立たしさと同時に、奇妙な戸惑いを感じていた。

 相手は一面識もないこちらのプライベートな情報をなぜか知っていて、奇怪な催眠術かトリックを使う正体不明の女だというにもかかわらず、緊張感がほぐれていくのだ。

 今にも自分を固めてしまうかもしれないというのに、沢渡はこの前とは違ってまったく恐怖を感じていなかった。これはいったいどうしたことだろう。




3


 沢渡は考えた。この前の奇怪な体験から2週間が経っている。などというが、この女と初めて会った日に受けたダメージで萎えていた自分は、その2週間のあいだに平常心を取り戻したのだろう。メールを受け取った夜は、気味が悪くて仕方なかったが、二、三日すると不気味さも徐々に薄れてきて、一週間経つとメールの文面にある喫茶店に行ってみようかと考えるだけのゆとりが出てきた。

 それから数日迷ったが、結局女と会ってみることにした。どうやら2週間という間を空けたのは、女のスケジュール上の都合ではなく、こちらを誘いに乗せるための心理作戦だったのかもしれない。

 おまけに女に会ってみると思いのほか人当たりがよく優しそうに見える。バカな年寄りならホイホイと怪しげな契約書に実印を捺してしまうだろう。

 だが沢渡は警戒を怠ってはいなかった。そして自分を奮い立たせた。いつまでもお前の思い通りにはさせるものか――

「お話があるそうですけど、どういうことでしょうかね」

 沢渡は女の顔を見据えながら唇から言葉を押し出した。

 女はこの前のような怪しげな雰囲気が消え、今は付き合いの長い保険会社のオバチャンのように見えた。

「そんなに怖い顔をしないでくださいよぅ」

 保険会社のオバチャンが微笑みながら甘ったれた口調で言った。いい年こいて何をふざけてやがる。ツンデレ女のつもりなのか。少し苛立った沢渡の口は言葉を押し出すための圧力がゆるくなり、饒舌になった。

「からかうのはやめてください。何か御用なら早く済ませてもらえませんかね。わざわざ車で30分もかかるところまで、こちらの方から出向いたんですよ。私もヒマじゃないんですから」

 向こうからこちらの自宅まで来られるのはかえって迷惑だし、ヒマじゃないというのも嘘だった。しかし沢渡は遠慮せずに言った。

「この前のは何ですか? 催眠術でしょう? いい大人の女性が私のような中年男に悪戯するなんて恥ずかしいとは思わないんですか?」

 女は困り果てたように視線を落とした。それでもその仕草のどこかに余裕のようなものを漂わせているのが見て取れた。

「だいたい何なんです? 私の店の経営状態や懐具合をどうこう言うなんて、失礼じゃないですか。見ず知らずの他人にそんなことを言われる筋合いはない」

 沢渡はピシャリと言って女の顔を見た。女は目を伏せていたが、こちらを見上げておずおずと口を開いた。

「不愉快な思いをさせてしまってごめんなさい。わたしはただ、あなたのお力になりたくて言ったまでなんです」

「お力だなんて余計なお世話ですよ」

「でも、わたしの話を聞いていただければ、西山さんからお借りになっている500万以上のお金のことも解決します。奥様がパートで働かなくてもお店をやっていくことが可能になりますよ。何よりも、あなた御自身の人生が一変するんです」

「だから、それが、余計な、お世話に、なるんですよ」

 沢渡は言葉を口から押し出すための圧力が再びきつくなってくるのを感じた。気味の悪いものが胸の奥から這い上がり、沢渡の舌の動きを鈍らせていた。

 どうして知っているんだ――

 2週間前、この女は沢渡に借金がある、沢渡の店がうまくいってないとしか言わなかった。沢渡はそれを占い師がよくやる、誰にでも当てはまるようなことを言ってこちらを騙すという単純な論理的トリックだと思っていた。

 だがこの女は沢渡が西山という人物に対して500万を超える未返済の借金があることや、店の経営を助けるために妻がパートで働いているという具体的なことまで知っている。

 そうだ、そもそもこの女はなぜこちらの名前や携帯電話のメールアドレスを知っていたのだ? 肝腎なのはそのことだ。

 それを確認するべく沢渡が口を開こうとした時、ウエイトレスが彼のコーヒーを運んで来た。






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