第2話  女と影




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 女が居た路地から逃げ出し、沢渡は死にものぐるいで電車の駅まで走った。立ち止まることもなく走り続けた。

 駅にたどり着くと、自宅へ帰る方向の電車を探した。

 ターミナル駅で発車を待っている電車のうちの一本に駆け込むと沢渡は空いていた座席に座り込んだ。

 めまいがする。心臓が痛い。本当に脳梗塞や心筋梗塞になりそうだった。

 他の乗客の視線を感じた。

 開いたドアから突然駆け込んできた中年男が顔面を汗まみれにしてゼイゼイと肩で息をしている。50代半ばという年齢でありながら全力疾走したせいで酸素不足になり、顔は土気色だった。両手両股を大きく広げ、二人分の座席を占拠してへばり付くようにして座っているマナー違反のオッサンは他の乗客の好奇と警戒の的だった。

 もっとも、沢渡の息が徐々に静まり彼が落ち着きを取り戻してくると乗客の関心は薄れ、注目の度合いはゆるくなった。ドアが閉じ、電車が出発してしばらくすると、もはや沢渡は彼らの関心から外れていった。

 ここまでくればさすがにあの女も自分をことはできないだろうと安心する一方で、沢渡は不可解な不安を拭い去ることができないでいた。

 女は彼のことをなぜか知っていた。面倒な借金があることも、商売がうまくいっていないことも。

 誰にでもあてはまるようなことを言って信憑性を高めるという、占い師の類がよくやるような手口だったのかもしれない。

 自分の外見が薄らハゲの中年男で、あまりにみすぼらしくうらぶれていて、覇気が無く無気力でおどおどしていたから、それに見合うようなことを言っただけなのかもしれない。

 日が西に傾こうとしている車窓の景色を見ながら、沢渡は自虐的な理屈で自分を安心させようとした。

 身体が固まったり勝手に足が動いて歩いたりしたのも催眠術を応用したか、もしくは手品のトリックを使ったのだろう――

 そんなふうに考えて沢渡は自分を納得させた。しかし重苦しい気分は晴れなかった。

 女がこちらのプライベートなことを知っているというのがどうしても気になる。それに妙なことも言っていた。「かいき」とか「かいきかのうしゃ」とか何とか。あまり日常的な言葉という感じがしなかった。あの「のっぺりぼう」の女の仲間だろうか。

 ひょっとすると自分でも気づかないまま何かとんでもないことに首を突っ込んでしまったのかもしれない。もし借金絡みや商売上のトラブルに関することだったらと考えると沢渡は気が滅入った。

 西山の髭面が目に浮かんだ。

 あの男が何か嫌がらせでもしようと企んでいるのだろうか。だがそんなことをして何になるというのか。それが原因で借金の返済が滞ったり、こちらが返済を渋ったりすれば困るのは西山の方だろう。

 取引先の面々を思い浮かべた。

 付き合いに大きな精神的エネルギーを要する顧客は何人かいる。しかしいずれもそのぶん細心の注意を払って接してきた。何か恨みを買ったのかもしれないが、自分の知る限り心当たりはない。

 沢渡は困惑していた。





 自宅に戻った沢渡は、六畳のダイニングキッチンで椅子に腰掛け、築20年以上になる7階建てマンションの3階の窓から外を眺めていた。

 東の方に見える似たような中古マンションの壁面に出窓が並んでいる。夕暮れ間近の太陽は、涙ぐんでいるような黒い影をそれらの出窓にこびりつかせていた。

 耄碌した田舎住まいの老人が自宅の縁側から近くの畑を眺めるように街の景色を眺めていた沢渡だったが、その心中はおだやかではなかった。

 やがてその街の景色が暗闇と窓明かりに彩られる頃、沢渡は志穂子から彼の携帯電話に送られてきたショートメッセージのことを思い出した。

 昼は外で食べてほしい、夜は冷蔵庫にカレーがあるからレンジで温めて食べてくれというメッセージだった。今日のパートは遅番で帰りは11時過ぎになるという。

 沢渡は腰を上げて冷蔵庫からカレーを出し、レンジで温めた。レンジの設定時間を長くしすぎたせいか、カレーのルーが煮え滾ってしまった。火山活動のドキュメンタリー映像で見た溶岩のように、グツグツと音を立てて泡立っている。火傷をしないようにキッチン用の手袋でカレーの入った皿をレンジから取り出したが、手袋を通しても瀬戸物の皿はひどく熱かった。

 ダイニングキッチンの椅子に座り、冷えた飯を丼鉢に盛ってその上から煮え滾ったカレールーをかけたが、食欲は無い。しかし食べておかなければ志穂子が何か尋ねてくるだろう。

 「どうして食べなかったの? 食欲が無いの? 何かあったの?」

 結婚して30年近くも経つとお互いに角が取れてきて、押すべきところや引くべきところがわかってくるものだが、沢渡と志穂子の間には未だに新婚時代からの緊張感が抜け切っていなかった。

 緊張感と言っても重苦しいものではないが、新鮮さに満ちた心地良さとも縁の無いものだった。心と心が微妙に摩擦を起こして痛痒感をもたらし、お互いにその患部に触れないように気をつけているという状態だった。そんな状態が四半世紀以上も続いていた。

 だがそんな状態でも今夜は志穂子がそばにいてほしかった。

 などどうでも良くなっていた。数時間前、都心の商店街にある路地で体験した奇怪な出来事のせいだった。

 沢渡は無理やり腹にカレーライスを詰め込むと、空になった丼鉢を持って立ち上がった。

 台所の流しで丼鉢を洗い、入浴を済ませ、パジャマに着替えた。そしてダイニングキッチンでテレビの画面に映っているバラエティ番組に目を向けていた沢渡は、玄関のドアの鍵を開ける音と「ただいま」という声を耳にした。





 妻の声だった。志穂子が帰ってきたらしい。

 沢渡は玄関まで迎えに行き、自分でもわかるほどテンションの高い声で「ああ、おかえり」と言った。母親の帰りを待ちわびていた子供の気分だった。

 遅くまで長時間のあいだ働いていたせいか、玄関に居た志穂子の顔には疲労感がへばり付いていた。だが何かいつもと違うものを感じたのか、下駄箱に自分が履いていたパンプスを入れながら夫の顔に視線を据えた。

 だが、それも一瞬だった。

 すぐに志穂子は沢渡から目をそらすと玄関の上り口に置いてあるスリッパを履いた。そのまま寝室ヘ行き、着ていたベージュ色のコートを脱いで出てくると、夜も更けて多少寒くなったせいか「ごはんは食べてきたわ。早くお風呂に入りたい」と言いながら肩をすくめるようにしてバスルームヘ直行した。

 沢渡はバスルームのドア越しに「俺、もう寝るから」と声をかけた。シャワーの水音の向こうで志穂子の「はーい」という返事が聞こえた。その声を聞いて急に眠気と疲労感が高まった沢渡は自分の寝室に入り、ベッドに潜り込んだ。

 昼間に体験した奇怪な出来事を志穂子に話そうか話すまいか沢渡は迷った。話してどうなるというものでもないが、少なくともいくらか不安が薄れるような気がした。

 しかし、どんなふうに話をしようかと考えると立ち止まってしまう。

 身体を固められたなどと言っても信じてはもらえないだろうが、あの女が初対面なのにこちらの身辺のことを知っているということに関しては現実味のある話だ。とはいえ、妻以外の女がこちらのことをよく知っているなどという話を夫が妻にする場合は、タイミングや順序をよく考えて話さなければ微妙な空気を作り出してしまう。

 結局あれこれと考えがまとまらず、代わりに沢渡は明日の仕事の段取りを考えることにした。

 もっとも、今の彼に仕事らしい仕事などあるはずもなかった。

 80年代のバブル絶頂期に、勤めていた会社を辞めて一人で始めた沢渡の店は、今やゾンビ企業同然だった。

 金属加工品の製造販売を営んでいるが工場は無い。雇っている従業員も居ない。客から注文を請けて図面を起こし、それを鉄工所や金属加工業者に作らせたものを納品して代金をもらうブローカーのような商売をしていた。商売をはじめて三、四年は順調だったが、五年目ぐらいから陰りが出始めた。

 間の悪いことに陰りの始まる少し前に沢渡は志穂子と結婚していた。精神的に蜜月だった時期も経済的に十分な余裕のあった時期も僅かな間だった。子供には恵まれず、生活費は二人分で済んでいるが、店を回していくには不十分だった。それで足りない分を志穂子がパートで補ってくれている。しかしもはや限界だった。

 本来ならとっくに店を畳んでしまうべきなのかもしれないが、その踏ん切りがつかないでいた。何かまったく新しい営業活動のようなものをしてみようかとか、いっそ自分もアルバイトに出てみるかとか、これまで何度も考えてきたことを考えているうちにウトウトし始めた。

 不意に枕元のガラケーが音を発し、沢渡は目を覚ました。

 メールが入っていた。件名は「驚かせてすみませんでした」となっている。

 間違いメールか迷惑メールの類のようだったものの、得体のしれない胸騒ぎがして沢渡は思わずそのメールを開いてしまった。




沢渡和史さま


昼間、お目にかかった者です。

あのときは怖い思いをさせてすみませんでした。

厚かましいお願いかとは存じますが、私ともう一度会っていただけませんか。

ぜひとも聞いてもらいたいことがあります。

話を聞いていただくだけで結構です。

再来週の15日、午後2時に

箕雄市の駅前にある「シャンブロウ」という喫茶店におこしください。

このお話はあなたのためにもなりますし

私にとっても有益なことなのです。


                      石黒綾美




 メールの末尾に「シャンブロウ」という名の喫茶店の所在地や電話番号が記してある。最初は何のメールなのかわからなかった。だがメールの本文を読み直すうちに、不快な鳥肌が自分の顔に生じてくるのを沢渡は感じた。

 文面からするとこれはおそらく昼間会った白いワンピースを着た女からのメールだろう。

 しかしなぜこちらのメールアドレスがわかったのか。どうしてこちらの名を知っているのか。

 眠気は一気に消し飛んでいた。





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