逃影者
木田里准斎
第1話 街の影
1
優しい気持ちになったとき、君に逃げられた……
30年前に見た映画の中のセリフを沢渡和史はふと思い出した。
ハードボイルドタッチのSF映画で、主人公の男がガラの悪い酒場の公衆電話から電話をかけるときのセリフだった。人造人間を作っている大企業の社長秘書の女へ一緒に酒を飲まないかと誘いをかけるシーンだ。
映画の中での時代設定は2019年ということになっている。あと数年もすればリアルタイムになってしまうが、主人公の男はスマホはおろか携帯電話さえ持っていなかった。五十路に入って五年、頭髪が薄くなった冴えない中年男の自分だが、携帯電話を持っている分、あの映画の主人公よりかは少しだけマシなのかもしれないと沢渡は思った。
大阪府の都心の繁華街にある百貨店の前に沢渡はいた。
大規模な立替工事がおこなわれて二、三年前にリニューアルオープンした店なのだが、新装開店してからまだ一度も沢渡は訪れたことがなかった。
日曜日の今日、数年ぶりに訪れたのだが浦島太郎のような気分だった。建物の外も中も様変わりしていて、以前の面影は全く感じられない。JRや市営地下鉄、大手私鉄の駅を中心として広がっているこの界隈は、もう何年も前から再開発や新しいビルの建設が次々とおこなわれて急速に着実に様変わりが続いていた。会社勤めをしていた若いころ、沢渡はときどき週末にこのあたりにやってきていたのだが、会社を辞めて自分で商売をはじめたころからほとんど訪れることはなくなり、今ではなじみのある街とは言えなくなっていた。
秋の午後の肌寒い風が頬を舐めて行く。パッチを履いてきてよかったと沢渡は思った。五十歳を越えてからめっきり下半身が冷えやすくなってしまった。遠い昔、小学生だったころに冬でも半ズボンで過ごしていた時期があったのが自分でも信じられない。年は取りたくないものだ。
百貨店の前でぼんやりと佇み、沢渡は流れる人込みを見るとはなしに見ていた。行き交う人間の影が日差しに煽られて目まぐるしく動いているが、佇む沢渡の影は先端が折れ、根が腐りかけた竹のようで、行き交う影の群れに弾き飛ばされそうだった。
沢渡はおもむろにその影の群れの中へと向かった。まるで暖を求めるかのように人込みの一部と化すと、彼は百貨店の中のコンコースに入って行った。
2
沢渡が今日この街にやってきたのは、たまたまだった。気まぐれと言うほどでもない。ヒマだったのだ。
商売の方はバブルがはじけた頃から徐々に減速して行き、今ではいつナマポの世話になってもおかしくない状態にまで落下していた。そんな状態にならないでいられるのは、沢渡の乏しい稼ぎを彼の妻がパートタイムの勤務で補ってくれているからだった。
志穂子は今日もパートに出ていた。後ろめたい気分がしないといえば嘘になるが、だからと言って自分に何が出来るわけでもない。開店休業状態の店を日曜日に開けても経費がかさむだけだと沢渡は思っていた。
しかし後ろめたい気持ちは人から見透かされやすいものらしい。
「あのぅ……」
鉄道の駅と百貨店とを結ぶコンコースを歩いているとき、女が声をかけてきた。
二十代半ばと思しき若い女でベージュ色のスーツに身を包んでいる。茶色い地味なクラッチバッグを手に持っていた。
「何か?」
無視するつもりだったが、沢渡はなぜか立ち止まっていた。たぶんヒマだったからだ。宗教の勧誘やキャッチセールスなら適当にあしらって逃げるつもりだった。
「何かお悩みがあるんじゃないんですか?」
そら来た、と思った。宗教系らしい。日曜日の午後、一人で歩いている中年男にこんなふうに声をかけてくる若い女の素性など限られている。
「いいえ、別に」
そう言って視線をそらすようにして立ち去ろうとする沢渡の横に並ぶと、女は歩きながらついて来た。
「悩んでいる人は自分が悩んでいることに気づかないものですよ」
巧いことを言う。その逆説的な言葉を耳にして思わず立ち止まる者がいるかもしれない。だが沢渡は立ち止まらなかった。
「1分でいいんです。お時間有りませんか?」
微妙だった。1分なら付き合うかもしれない。3分なら躊躇、5分なら無理だろう。沢渡は立ち止まっていた。
「私とお悩みを共有しませんか?」
以前、ファイル共有ソフトというものを通じてデータや画像、動画などをダウンロードしたパソコンがコンピュータウイルスに感染し、大きな社会問題となったことがあった。
そんなことを思い出しながら沢渡は女の顔を見た。
のっぺりとした顔の女だった。
宗教に入れ込んでいる人間にありがちな、謎めいた清潔感が漂っていた。染めていないセミロングの髪と、化粧をほとんどしていない健康的な顔色が安心感を醸し出す。よく見ると瓜実顔の美人だったが、どこかつかみどころが無くて親しみが湧かない。顔の表情に冷たさはないのだが、ツルツルの瀬戸物を舐めているようで全く味気がない。
「のっぺりぼう」だと沢渡は思った。目も鼻も口もない妖怪「のっぺらぼう」ではないが、目も鼻も口も印象が皆無に近い「のっぺりぼう」なのだ。もっとも、美男美女というものは概してそういうものらしいが。
いつの間に取り出していたのか女は名刺のようなものを持っていた。
やはり宗教系だったらしく、名刺の肩書きに「光」とか「魂」とか「霊的」とかいう文字が垣間見えた。その名刺を渡そうとする女の顔の前で追い払うように手を振り、沢渡は強い調子で言った。
「別に悩んでなんかいないよ」
女は名刺を差し出す手を止めた。伝法な口のきき方を後悔した沢渡だったが、女が顔に薄く笑みを浮かべたのを確認すると、彼もあいまいな笑みを浮かべてその場を立ち去った。
「失礼いたしました」
女の声が肩越しに聞こえてきた。
それっきり沢渡が「のっぺりぼう」に会うことは無かった。まるで黙示録に描かれているような、あの恐ろしい日が来るまでは……
3
百貨店の前のコンコースを通り抜け、沢渡はちょっと猥雑な感じのする商店街の方へ進んだ。
飲食店やゲームセンター、パチンコ屋などが並ぶ歓楽街だ。ただし、狭い意味での風俗店は少ない。アダルト雑誌やエロビデオの販売店がときたまひょっこりと姿を現す程度で、至極健全といってもいいような街並みだった。漫画やアニメ関連の書籍・グッズ・キャラクター商品をあつかっているオタク向け有名店の支店もある。
沢渡はただブラブラとその商店街を流していた。長い通りの終わりには人形浄瑠璃の舞台となった有名な神社がある。そこまで行ったら引き返してどこか別の場所をぶらつくつもりだった。
沢渡はカルト信者らしき女とのさっきのやりとりに後味の悪いものを感じていた。自分が怒りっぽい人間だともイラチだとも思っていない沢渡だったが、ときおりそう認めざるを得ない出来事があると余計に苛立ってしまう。五十歳を過ぎてからは年のせいか尚更そんな事が多くなった。
気を紛らわせようと思った沢渡はパチンコ店を探して周囲を見渡した。
25メートルほど先にラジオCMでたびたび名前を耳にするパチンコ店があった。そちらへ向かって歩み出した沢渡は、雑踏の中をこちらに向かって歩く白い服を着た女の姿を見た。
女が着ていたのは真っ白いワンピースだった。手ぶらで歩いているその女の姿は周りから浮いているように見え、沢渡は昔見たテレビドラマのクライマックスシーンを思い出した。工事現場で働いているしょぼくれた中年男のところへ白い花嫁衣装を着た若い女が駆け寄ってくるシーンだ。
だが近づいて来るにつれて女の年のころは五十代半ば、沢渡より少し年上か同年齢ぐらいだということがわかった。
ミディアムヘアの髪は染めているのか白いものは見当たらなかったが、女の目じりには小皺があり、保湿クリームを塗った肌がヌメヌメしていた。不細工ではないが田舎臭さが抜けきれない素朴な中年女といった感じだ。
数メートルの距離までお互いが接近したとき、女が沢渡の顔を見た。
沢渡は目を逸らしたが、女は異様な目つきで沢渡を見つめた。沢渡に吸い付くような視線を向けながら彼とすれ違う。女が彼に関心を示したことなど沢渡には知る由もなく、そのまま彼はパチンコ店へと向かおうとした。
奇妙な感触があった。
後ろ髪を引かれる、というのが似合っていた。何かに心残りがあるわけでもないのに、歩を進めるのが億劫だった。いや、億劫どころではなかった。
体が動かないのだ。
首から上は動かせるのだが、首から下の手足が何かで固められたかのようにピクリとも動かない。
不安が徐々に沢渡の体を蝕んでいった。年齢からして脳梗塞か心筋梗塞の症状だとも考えられる。だが次の瞬間、肉体の歯車を誰かが勝手に回したかのように足がひとりでに動き出し、不安は恐怖に変じた。
自らの意に反し、踵を返して歩き始めた身体は運転中にハンドルとブレーキが突然失くなった車のようだ。沢渡はかたわらを歩く通行人へ助けを求めようとしたが、なぜか声が出ない。喉を押さえつけられているような感触が呼吸困難を連想させ、いよいよ沢渡は激しいパニック状態になったが、パニックによる悲鳴すら発することができなかった。
沢渡の身体は来た道を逆に辿っていて、彼には自分がどこへ行こうとしているのか、いやどこへ連れて行かれようとしているのか検討もつかない。しかし彼は自分が前を歩く白いワンピース姿の女――さっきパチンコ店の前でこちらに向かって歩いていた女のあとを追っているようだと感じ、やがてそれは女が少し先にある路地に入ってからも彼が同じ路地に入って行ったことから確実となった。
ビルの壁面に挟まれた人通りのない狭い路地の奥に、白いワンピースの女が立っていた。防犯のためなのか電灯がビルの壁にいくつか設えてあり、路地の中は比較的明るい。沢渡は女のそばまで進むと立ち止まった。いや、立ち止まらされた。
4
何が起きたのか沢渡には全くわからなかった。
客観的に言えば、自分の体が急に動かなくなり、その後、意思に反して歩き始め、白いワンピースの女の後を追って路地の中に入って行ったということなのだろうが、そのときはそんなことなど全く想像もつかなかった。
混乱している沢渡に、目の前の女は顔見知りのように話しかけた。
「こんなところで出会うなんて思いもよらなかったわ」
琥珀色の洋酒のような香りがする女の声が聞こえた。女の目は潤んでいた。
「どうしようかしら。ああ、そうね。焦っちゃいけないわよね」
女は独り言を言っているようだったが、手足が動かず喋ることもできず、ただ太い杭となって立ち尽くしている沢渡には女の独り言の内容を詮索する余裕など無かった。
女の身長は沢渡より少し低いぐらいだったが、白いワンピースを着た姿は高級ホテルのラウンジでグランドピアノに向かって腰掛け、ライブ演奏をする女性ピアニストのような格調の高さがあった。
女は沢渡が20代の頃、昼ドラのお嫁さん役で人気を博した女優にどことなく似ていた。気難しい姑がいる家に嫁いだ新妻の役を演じていた女優だった。姑のどんな意地悪や無理難題にも健気に対応し、それでいて天使のような笑みと夫に対する優しさを決して失わない。嫁の鑑だった。
今なら時代遅れの化石のようなキャラクターだとか、役柄はあんなふうだが素は性格の悪い女に違いないとか、少なからずネットで叩かれるだろう。しかし当時はそれなりに人気があって、僕と結婚してくださいという高校生からのファンレターが来たこともあり、お嫁さんにしたい女優ナンバーワンの座を射止めていた。
その女優が歳を重ねて癒やし系熟女になったような容姿の女だったが、沢渡はそれとは裏腹な気味の悪いものを目にした。
女の背後にビルの壁があり、そこに女の影が映っていた。影は壁面に大きく広がっていたが、よく見るとそれは人間の形ではなく蜘蛛のような形をしていた。壁に巨大な黒い蜘蛛がへばりついている。
左右に広がった蜘蛛の肢のうちの一本が不自然な角度で曲がり、地面に向かって伸びていた。伸びた影はよく見ると沢渡の足元に淀んでいる彼自身の影に繋がっている。蜘蛛が獲物を肢で押さえつけているように見えた。その不気味な光景は身体を固められたという状況とあいまって沢渡の頭を恐怖で蒸し焼きにした。
「身体が動かないでしょう。わたしがあなたを動けなくしてるのよ。でも、怖がらずに聞いてほしい」
女が言った。
「あなたは『回帰可能者』なのよ。『回帰』すれば、何もかもうまくいくようになるわ。傾きかけたあなたのお店のことも、借りているお金のことも」
不意に身体が軽くなった。全身が蕩けるような感覚が襲ってきて沢渡は後ろ向きに倒れそうになった。
自分の身体の支配権を取り戻したことを知った沢渡は、女の方を見た。女は両目尻にしわを寄せ、笑みを浮かべて上目遣いにこちらを見ていた。
沢渡はまた固められるのを警戒し、女の方を見ながら慎重に後退りをした。商店街の明かりが顔に触れた。沢渡は体を泳がせながら路地からダッシュして逃げ出した。
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