丹生(にう)のほむら

うめ屋

*


 丹生にうの女王ひめみこは、誰よりも強くけだかい女人でなければなりませんでした。

 女王はこの常若の国の、尊き大君の血を引くむすめです。かつて国をお拓きになった大君の双子の弟御が、女王のご先祖にあたります。

 かつての大君とのお約束で、女王の家系は末長く大君のお血筋を助けることを誓いました。むすめを産み、その子を大君の正妃に差し上げることで血をお支えしてきたのです。ですから女王も、いずれ大君となられる皇子にお仕えすることが決まっていました。

 皇子は円日まどひの皇子みことおっしゃいました。お歳は女王よりも三つ下です。女王が父君に連れられ、宮で初めてお目にかかったとき、まだ四つの皇子は父大君のおみ足の陰に隠れていらっしゃいました。


「皇子さま、はじめまして。丹生ともうします」


 女王がご挨拶申し上げますと、皇子はますます大君の後ろへ下がられました。されども父大君に促され、おずおずとお顔を覗かせます。皇子がはにかんだ笑みを浮かべられた瞬間、女王は、まあ、という感嘆の声をのみ込みました。

 その笑みは春の柳のようにやさしく、愛らしいめじろの雛が小首をかしげたようにも見えます。あたりはぱっと山桜の開いたような明るさに満ち、女王は、おのれの周りにひらひらと花が舞いゆくのを感じました。


――このお方が、わたくしの夫君となられる皇子さま……。


 心の臓がどきどきと波打ちます。皇子のお姿はそれほどに清くまばゆく、女王は、いまこのときが永遠に続けばよいのにと思いました。

 しかし宮からの帰り道、父君は女王にこうおっしゃいました。


「おまえは皇子様の妻であって、けれども妻ではない女人にならねばならぬのだよ」

「……つまではない……?」


 女王は眉をひそめて父君を見上げました。父君は女王の頭を撫で、染み込ませるように諭します。


「そうだ。わが家は大君をお助けまいらせ、お支え申し上げるための血筋だ。ゆえにおまえも、妻である前に大君の忠実な臣でなければならない」

「……つまと臣とは、いっしょにはできませんの?」

「できなくはない。だが妻と臣の立場がぶつかったときには、必ず臣であることを先んじねばならぬ。女として妻として、大君に甘えることは許されぬのだ」


 父君のおことばは、女王にはまだ難しいものでした。

 ですが女王は懸命に考えて、わたくしは皇子さまの姉上のようでなくてはならないのだ、と思いました。あるいは、宮の門前を守る雄々しい兵士のようでなくては。

 女王はそう考えたのち、ふたたび父君を仰ぎました。


「わたくし、皇子さまの善き臣であるように心がけますわ。わたくしのほうが、歳も上でありますもの」

「そうだな。おまえは誰よりも強くけだかく、大君にお仕えできる女人となりなさい」


 父君が、励ますように女王の頭へ手を添えます。女王は、はいと力強くお返事をしました。


*


 女王ひめみこは、齢十七で円日まどひの皇子みこの正妃となりました。

 初めて皇子をお迎えする夜、女王は念入りに身支度を整えました。髪を梳き、衣の合わせを揃え、秘宝の香木を少しだけきしめます。

 それでも、まだどこかが乱れているのではないかと思われ、女王は落ち着きなく襟元を撫でました。


――……いけないわ。


 はっとして手を離します。おのれは皇子の忠実なる臣です。いずれ大君となられる皇子をお助けし、お支えせねばならぬのです。こうしたわが身が、床入りひとつで揺らいでいるなど。


――わたくしは誰よりも、強くけだかく在らねばならない。


 女王は目を閉じ、深く呼吸をくり返しました。

 そうするとしだいに心の臓も鎮まり、息が楽になってきます。香木の香を嗅ぐゆとりもでき、ふとそこに、なんとも心なごむ若草のごとき匂いが混じったのを感じます。さらりと御簾が掲げられ、女王はその音のぬしを悟って平伏しました。


「お久しぶりですね、女王」


 すずやかな声が降ってきます。女王は唾をのみ、畏まってお答え申し上げました。


「ご無沙汰をしております、丹生にうにございます。これからは皇子さまの忠実なる臣として妻として、末長くお仕え申し上げる所存でございます」

「女王は真面目まめでいらっしゃる」


 眉を下げて笑む気配がし、顔を上げるように促されます。応じて背を正しますと、皇子は微笑とともに女王を見つめていらっしゃいました。

 御年十四の皇子は、若人らしい青いすがしさに満ちています。人々の前にお出ましになれば、誰もがその笑みをうっとりと拝見するでしょう。皇子はそれほどにうるわしく生い立っておられました。

 まなざしだけが、むかしと変わらず春のやさしさをたたえています。女王はその御目に吸い寄せられそうになりながら、おのれの思いを抑え込みました。


「……わたくしは、皇子さまをお支えする血筋のむすめにございますれば、」


 ふたたびこうべを垂れますと、皇子は琴を震わすようなお声でお笑いになりました。衣ずれが近づきます。


「ですが、この場ではわたしの妃です」


 若草の匂いが女王を包み込みました。女王はこぶしを握ります。皇子のお声が耳元に触れました。


「わたしも、かような夜は初めてですから、不慣れですけれども――」


 女王はもう、総身が燃えているのではないかというほどの羞恥をこらえ、皇子のお背中に腕を回しました。唇を噛み、それからきッと皇子を見つめます。


「どうぞ、皇子さまのお心のままに。皇子さまから賜るものは、すべてわたくしの喜びでございます」


 そう申し上げますと、皇子は嬉しげに微笑まれました。

 それからのひとときは、女王を甘やかな高みのうちへいざなってゆくものでした。女王にとっては、この夜がもっとも幸福な一夜であったかもしれません。


*


 春の陽ざし降りそそぐ宮庭に、柳のそよぐような笑い声が弾けます。

 女王ひめみこはそのお声を聴き、渡廊のさなかで立ち止まりました。付き従う女官たちが、こうべを垂れて控えます。

 目を庭へ遣りますと、群れ咲く庭梅はねずの木立の合間に男女の影が見えました。いずれもまだ若いらしく、春そのもののような明るい装いをしています。女人が殿方の腕に身を寄せ、なにごとかささやきました。殿方が女人をふりむいてお笑いになります。

 そのお顔を見、女王は胃の腑がしんと冷えてゆくのを覚えました。


――皇子さま。


 女人とお話なさっているのは、女王の夫君である円日まどひの皇子みこです。

 齢十六になってますますすがしく、さわやかになられたお姿は、遠目にも美々しいものでした。女人が夢中になるのもわかります。ましてや、あの女人には正しく皇子のおそばに侍る資格がありました。


「皇子さまと若菜どのは、お睦まじいようで何よりなこと……」


 女王は呟き、女官たちに微笑んでみせました。彼女らはそのとおりだと力強い笑みを返します。女王はそれに頷き、女官たちを率いて歩み始めました。

 女王が皇子の妻となって、二年が経っていました。

 十九となった女王は、押しも押されもせぬつぎの皇子の正妃として後宮を統べています。女官たちを差配し、ときには表宮の大臣たちとも話し合わねばなりません。人々を束ねるのは並たいていのことではありませんでしたが、女王は怯むことなく立ち向かいました。

 いまでは、宮の人々も女王を頼みにしてくれています。忙しなく気を張ることもありますが、満ち足りた宮暮らしです。欠けたるところのない日々であるはずでした。


――そう。皇子さまのおそばに侍る女人が多いのも、欠けたることなく国が安んじている証し。


 かつて国をお拓きになった大君は、各地の豪族からむすめをお迎えなさいました。あらゆる氏族をひとしなみに扱うことで、国の力が崩れぬようにお計らい遊ばされたのです。

 以来、大君は代々あまたの妻妾を置かれるようになりました。ですから、大君の後継ぎであらせられる円日皇子が女人に親しまれるのも、喜ばしいことなのです。現に皇子は、すでに若菜郎女わかなのいらつめを始めとした幾たりかの妻妾をお持ちでした。


――それがこの国のまったき在りよう。みながそう信じている。


 確かに、各地の豪族を平らげるには婚姻を結ぶのがいちばんです。血の結びつきは固く太く、大君のお力を増さしめます。そうなれば、国はいよいよ平らかに治まるのです。


――けれども、妻妾が増えれば後継ぎになりうる皇子も増えてしまう……。


 妻が増えれば、そのぶん御子も増えるのは道理です。日嗣の皇子ほどでなくとも、大君の血を引く御子は何がしかの御位を与えられてかしずかれます。いま、宮にはそうした御子たちが数多くいるのです。女王はそのことを案じていました。


――しかしむすめを差し出した豪族たちは、その得られる権勢ゆえに口をつぐむ。


 むすめが大君の御子を産みまいらせれば、御子の祖父母となる豪族たちにも恩恵が下ります。彼らはそれに味をしめ、そ知らぬふりをしていました。


――目を閉じていても、いずれは崩れてしまうでしょうに……。


 堤のほころびは、知らぬ間に広がってゆくものです。そのきずが堤を破り去る前に、策を講じねばなりません。それこそが、大君の忠実なる臣としての役目です。


――そう。だからこの痛みも、ただ臣として大君をお案じ申し上げているだけのこと。


 まぶたの裏に、光あふれる若き皇子と郎女の影がちらつきます。その光景は胸のうちに針のような痛みをもたらしましたが、女王は強いてその痛みを忘れ去ろうと努めました。

 このように目を閉じるおのれも、肥え太る豪族たちと変わらぬのだとは予感しながら。


*


 その年の夏、南海に異国の船が流れ着きました。

 はるか西国からきたその者たちは、紅い髪に碧い瞳、高く曲がった鼻を持ち、ことばも肌の色も異なりました。

 彼らは許されて、大君の謁見を賜ることとなりました。そして円日まどひの皇子みこ丹生にうの女王ひめみこも、皇族として彼らに会うこととなったのです。

 女王たちは大君の謁見が終わったのち、たかくらの脇に呼ばれて初めて異国人を見ました。異国の者たちは床に膝をつき、深くこうべを垂れています。


『           、         』


 頭領とおぼしき紅毛碧眼の男が、つる草の絡まり合うような音の連なりとともに額と胸へ手を当てました。

 どうやらこれが、異国の挨拶のようです。その横に座す黒髪碧眼の男が僧形の男になにかを伝え、さらに僧が宮の役人に耳打ちしました。役人がそれを皇子と女王に上啓します。


「お初にお目もじ仕ります、だつ・舎利亜しゃりーあと申します、と申しております」

「遠き道のりを、たいへんな難儀でしたね」


 皇子がいたわりを述べられますと、先ほどとは逆のやりとりを経て舎利亜に伝えられます。舎利亜は慇懃に礼を表すしぐさをしました。

 それから、皇子と舎利亜との問答がくり広げられました。

 舎利亜は西国の商人であり薬師でもありました。まだ見ぬ生薬を求めて旅に出、海に漕ぎ出し難破したのです。常若の国ではどの人々も舎利亜たちを憐れみ、よくしてくれたと語り、大君と皇子にお礼を申し上げました。大君のすぐれたご治世ゆえに生命を拾ったのだとへりくだります。


『    、                          』


 舎利亜がうやうやしく手を伸べ、後ろに山をなしていた大きな覆いを取り払わせました。ほう、と宮の者たちから声が上がります。舎利亜がたずさえてきたのは、世にもめずらかな異国の品々でした。

 さいとかいう獣の角や、黄金の毛皮、紫檀の琵琶に緻密な織物、玉の枕に玻璃の杯、極彩色の陶の置物。巻子や絵巻、筆に紙といった文物もあり、役人たちが幼子のように目をかがやかせました。

 舎利亜はこれらの品々を、大君に献上奉ると申し上げたのです。大君のお指図で、さっそく献物のあらためが行われることになりました。役人たちが大わらわで記録をとり、舎利亜らも説明のために入り乱れます。

 その中で、ひとりの役人が小さな引き出しの寄り集まった箪笥に指をかけました。途端に舎利亜が、待て待てというふうに手をふります。


『  、             !』


 舎利亜は役人を押しとどめて箪笥を開けました。巾着をつまみ、その口を開けて役人に示します。役人は得心したように頷きました。高御座の席からはそれが何なのかが見えず、皇子がお訊ねになります。


「その箪笥の中身は、いかなる宝物でしょうか」


 すると、役人を通じて舎利亜がお答え申し上げました。


「この箪笥は生薬を収めるためのものです、こちらは猛毒にもなる丹砂を入れた引き出しでしたので、お役人様をお止めしました、とのことです」

「丹砂といえば、不老不死の仙薬にもなるという?」

「さようにございます。しかし用い方を誤れば、男の精や女の津液を枯れさせ、子をさしめぬ毒ともなります」

「薬と毒は奥が深いものなのですね」


 皇子が神妙なお顔で頷かれます。舎利亜も重々しく頷き返すかたわらで、女王はひそかに顔を強張らせていました。


――子を生さしめぬ、毒……。


 もしや、あれをうまく用いれば。

 女王は、こめかみがすうっと冷えてくるのを感じました。鼓動は速さを増しているのに、身体は冷たくなってゆくのです。

 女王はじっと、舎利亜がつまむ丹砂の袋を見つめていました。

 しかし誰も、そのことには気づいていませんでした。


*


 円日まどひの皇子みこは齢二十を迎えても、ひとりの御子も得ておられませんでした。

 御身はお健やかで、夜ごと数いる妻妾の元へお渡りにもなっています。にも関わらず、御子がおできにならないのです。宮人たちはこれを案じ、一方で決して口にはできぬ疑いを抱いてもおりました。

 すなわち、皇子には子種がおありにならないのではないか、ということです。女王ひめみこは、こうした声なき声を黙って受けとめておりました。

 それらの声を思い出しつつ、皇子に差し上げる、牛の乳でつくった飲みものを支度します。これはたいへん貴重なものですが、皇子がよき御子を得られるように、大君のご配慮で毎朝お召し上がりいただいているものでした。

 この飲みものに、女王はひと匙お薬を加えます。赤い丹砂の粉がさらさらと乳に融けました。それをよく混ぜ、皇子のお部屋までお運びします。


「皇子さま、おはようございます」

「おはようございます、女王」


 皇子は侍従に髪を梳らせながら、膳の前に座していらっしゃいました。このようにくつろいだお姿を拝見できるのは、女王が正妃であるからこそです。女王は毎朝、そのことにひそかな喜びを覚えます。微笑んで牛の乳を差し上げますと、皇子もやわらかに御目を細めてくださいました。


「ありがとうございます」


 皇子は、いつものようにその飲みものを聞こし召します。皇子が最後までお飲みになったのを確かめ、女王は向かい合う膳の前へ座しました。

 それから、ふたり揃っての朝餉となります。きょうのご予定や大君のご様子などを伺い、朝餉を終えたあとは皇子をお見送りいたします。冠を上げ、襟元もすずしく整えなさった皇子は若き貴公子そのものです。

 女王はそのお姿をまばゆく拝見しながら、畏まって礼をしました。


「どうぞ、お気をつけて行っていらっしゃいませ」

「ええ、では夜に」


 皇子は女王の頬をひと撫でし、表宮へ去ってゆかれました。女王はそのお姿が見えなくなるまでお見送りし、おのれの部屋へ戻ります。

 女官はよく心得ており、汲みたての水を女王に差し上げました。女王は薬の包みを取り出し、水とともにあおります。あおの金気臭さが鼻を抜けましたが、女王は息を乱すことなく飲み下しました。


「なにとぞ、今宵もお励みになられますよう」


 女官のことばに、女王は鷹揚な頷きを返しました。

 彼女らは、この薬が子を授かりやすくするためのものだと思っています。皇子の妻妾ならば、こうした薬やまじないは誰もが行っていることです。ただ、女王が飲む青丹は、少しだけ異なる効き目を持つはずのものでした。

 丹は陽で、青丹は陰です。あるいは雄と雌、夫と妻であり、ふたつで一対をなす薬なのです。

 皇子が丹を聞こし召し、女王が青丹を飲む。

 これによって、皇子の精は女王の胎にしか宿らなくなるのです。かつて流れ着いた異国の商人、舎利亜から献上された秘薬でした。女王はこれをひそかに手に入れ、皇子とみずからの食膳に上げ続けてきたのです。おのれこそが、皇子の御子を産みまいらせるそのために。


――なぜならわたくしは正妃だから。皇子のお血筋をお支えする、忠実なる臣なのだから。


 女王は誇り高く胸を張り、舌に残る青丹の味を噛みしめます。

 されども、そのまなうらには、皇子に寄り添う妻妾たちのかんばせが次々と立ち現れてくるのでした。


*


「若菜どのが、懐妊召された……?」


 女王ひめみこは、女官の報せを茫然と聞きました。女官はそうした女王には気づかず、力を込めて申し上げます。


「はい、おめでたいことでございます。皇子さまにとって初めての御子でいらっしゃいますね」

「……そうね、」


 かろうじてそう答えましたが、女王の心中は乱れていました。なぜ、どうして、女王ではなく若菜郎女わかなのいらつめが皇子の御子を孕んだのか。

 女王は齢三十になっていました。夫君である円日まどひの皇子みこは二十七です。

 もう十と三年もの間お仕えしてきましたが、女王は皇子の御子を上げられておりませんでした。しかしそれは他の妻妾たちも同じで、いよいよ皇子のお身体に障りがあるのではという声が出始めていたのです。

 その矢先の吉報は、大いに宮人たちを喜ばせました。女王付きの女官らも、ほっとした様子で喋ります。


「本当にめでたいこと。大君さまもご安心召されるでしょう」

「あとは男御子がお生まれになれば」

「ええ。国の先ゆきもいっそう明るくなることね」


 女官たちが寿ぐかたわらで、女王はなにも言えませんでした。彼女らのさえずりは、遠い潮騒のように素通りしてゆきます。女王独りが、厚いとばりをへだてた先にいるかのようでした。


「そうだわ、郎女どのの宮に祝いの遣いを出さなくては」

「女王さま、祝いの品はいかがなされます?」


 女官の問いに、女王ははっと強張りを解きます。ええ、そうね、と口ごもりつつ答えました。


「品物は、後ほどしかるべきものをお贈りしましょう。ひとまず文を走らせなさい」

「かしこまりました」


 女官がさっそく動き出します。その光景を眺めながら、女王はどっと疲れを覚えて座にもたれかかりました。

 その夜、女王は誰もが寝静まったころに起き出しました。

 紗をかぶり、手燭の周りに覆いをして明かりが漏れないようにします。そうしてうつくしい玉の香入れを持ち出しました。香木を手鉢でつぶし、赤い丹砂の粉をさらさらと加えます。さらさらと、さらさらと、皇子に差し上げる飲みものよりもはるかに多い丹砂の粉を。

 丹砂は不老不死の仙薬ですが、用いすぎれば子種を殺す毒ともなります。そのうえ砂のままよりも、熱して発する気を吸い込むほうが猛毒になるのです。それこそ、吸い込んだ者を息絶えさせるほどに。


――これを、若菜どのへの贈り物にすれば……。


 女王は香木と丹砂をよく混ぜます。混ぜて、混ぜて、この香をく郎女の姿を思い浮かべながら、ふいにその手が震えました。

 わななき出した手は止まらず、匙を取り落とします。高くさびしい音が夜のしじまに響きました。


「――ッ!」


 女王は声もなく慟哭しました。

 大君の忠実なる臣、誇り高き皇子の正妃。そのはずのおのれが、いったい何をしているのでしょう。哀しみと憤りは女王の背を焼き、胃の腑の底から突き上げてくるようにあふれます。その底は果てしなく、あとからあとから襲いかかってくるのです。このままわが身を引き裂けるのなら、はらわたごと抉り出してしまいたいほどでした。

 女王はそうして、夜が明けるまで哭いていました。

 その後、若菜郎女が産みまいらせたのは、円日皇子に瓜ふたつの男御子でした。


*


 結局、円日皇子の御子を上げたのは若菜郎女わかなのいらつめだけでした。

 その他の妻妾は、女王ひめみこさえも、ひとりの御子も得られなかったのです。そのぶん、若菜郎女とその御子が重んじられるようになったのは、自然ななりゆきでした。女王は、やがて形だけの皇后として、円日大君まどひのおおきみとおなりになった夫君のおそばに並びました。

 立后のときの、寒々とした空虚な気持ちを、女王は一生忘れまいと思いました。

 きららかな真珠や玉の装飾で装わされ、誰より上等な絹に身を包んでいても、心はどこまでも冷えています。隣におられる夫君は、女王をふりむいておだやかな笑みを浮かべられました。


「女王、いえ皇后。これからも、わが正妃としてよろしくお願いします」

「……ええ、」

晴日はるひの皇子みこはまだ十二、母である若菜郎女も身分は下です。皇后としてよく導いてやってください」


 円日大君は、唯一の御子とその生母のことをお頼み遊ばされました。大君の忠実なる臣であれば、感極まって押し戴くべきおことばです。

 されども皇后は千切れんばかりに唇を噛み、こうべを垂れました。大君の春の柳のような笑みが、厭わしいほどにいとおしくてなりませんでした。

 その夜、大君はひさびさに皇后の宮へお渡りになりました。淡い情を交わしたのち、同じとこで休みます。

 のびのびと寝息を立てられる大君は、歳を経て、相応の重みと疲れの陰をひそませておられました。額には脂が浮き、目元にはかすかな皺が寄っています。されども、皇后とて同じだけ、いえ大君よりもいっそう齢を重ねているのです。


――円日皇子さま……大君さま、


 皇后は大君の頬をくるみ込むように撫で、くちづけを落としました。粘った男の匂いがします。その匂いさえもかなしく狂おしく、皇后はひっそりと嗚咽をのみました。

 円日大君は、それから一年と経たずに崩御かむあがり遊ばしました。少しずつお手やおみ足が動かなくなり、最期にはげっそりとおやつれになって亡くなられたのです。宮人たちは、まるで仙薬を飲みすぎてお果てになった異国の皇帝のようだと噂しました。

 遺された晴日皇子は、丹生皇后が後見となってお育て申し上げました。皇后は正妃として、父君という大きな後ろ盾を亡くされた皇子を守ろうとしたのです。皇子はお健やかに生い立たれ、やがてつつがなく大君の位を継がれました。

 皇后は、その生母たる若菜郎女も軽んじたりはしませんでした。

 しかし皇后の権勢は日ごとに強く、いや栄えてゆきましたので、いつしか宮の片隅に忘れ去られてしまいました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

丹生(にう)のほむら うめ屋 @takeharu811

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ