子育てのぐちゃぐちゃ

かのん

片付けても散らかる部屋、母の憂鬱

 ガキ共を保育園に預け、満身創痍で家に戻った私の眼前に広がるのは、ぐちゃぐちゃのリビングだった。

 深いため息がリビングと、隣接する子供部屋に広がる。『子供がいても部屋を綺麗に保つ秘訣』というWeb記事を読んだばかりなのに、この有様だ。私は窓を開けた。三月の肌寒い風と共に、駒沢通りの騒音が入り込んでくる。本来なら不快であるはずのそれらは、部屋に満ちた不機嫌な朝の残り香―六歳長男と四歳長女が登園を拒否するグズリ、早く支度をするようにせかす母親の怒りに満ちた声―を、消し去ってくれたかのようだった。

 幾分か落ち着きを取り戻した私はソファに横になった。スマホで連絡帳アプリを開き、お迎えの時間と『今日の様子』の記入に取り掛かった。

「育児、もう限界です。疲れました。ママ辞めたいです」

 指が勝手に動き、無意識のうちに文章が記入される。私は人差し指の、はげかかったマニキュアを見つめた。先週オフィスに出社する日があったので、その際に塗ったものだった。あれは私を二重の意味で後悔させた。まず独身社員のジェルネイルと比較すると、かえって惨めに見えた。次に今朝のように、自分をメンテナンスする余裕がないのだと気づかされるのだった。

「こんなの書いたところで、やばい親って思われるだけだよな」

 またも無意識に独り言が出てきた。文章を消し、空白を虚言で埋めていった。

「昨日は日曜日だったので、公園で楽しく過ごしました!」

 公園を訪れたことは事実だった。しかし防寒を怠り、始終震えていた。子供たちの希望で各々が自転車に乗って出かけたが、問題は帰り道に起きた。疲れ果てた彼らは自転車を漕ぐことができず、私が二台分を引く羽目になったのだった。楽しいことなど、何もなかった。「やっと明日は月曜日だ」と眠る前の瞬間くらいか。人生は憂鬱で消費され、行き場のない怒りが常に心身を蝕んでいた。


 時計に目をやると、八時半を指していた。あと一時間で朝礼が始まる。リモートワークの日なのでオンライン会議だが、仕事は仕事だ。自社の製品に興味がある振りをして、営業目標を達成したい意欲があるように見せかけなくてはならない。舌打ちをすると同時に、インターホンが鳴った。身を起こし、モニターを確認しに行くと、七十を過ぎたくらいの女性が映っていた。

 彼女は淡い桃色のスプリングコートに身を包んでいた。ショートヘアにはふんわりとウェーブがかかっている。上品な婆さんだ。となると、考えうる目的はひとつしかない。

「はい」

 宗教の勧誘に違いないと察して、わざと不機嫌な声を出した。

「あ、株式会社タカイの林です。お掃除に参りました……」

 感じの悪い声を出したことを後悔した。すっかり忘れていた。家事代行を頼んでいたのだ。


「すみません、散らかっていて」

 いつもは家事代行を頼む際、おもちゃや食べ残しなど最低限は片付けて出迎えていた。『現状がこれなら、掃除も適当で良いか』と思われそうで嫌だったからだ。しかし今日は違った。リビングには週末の残骸であるお菓子の袋や、虫のように湧いて出てくるブロックの欠片やら、夫の脱ぎ散らかした靴下が散乱していた。林さんは微笑んだ。

「良いの、良いの。これを綺麗にするのが、私の仕事なんだから」

 彼女の眼鏡の奥で、小さな瞳が輝いていた。おそらく少女の頃から変わらないであろう、陽だまりのようにあたたかい眼差しだった。もう少し彼女と話していたくて、私は言った。

「近藤さんって、お子さんいましたか?」

「いたわよぉ。男の子が一人、女の子が三人」

「え、四人ってこと!?」

 この手の反応に慣れているのか、林さんはにこにこと笑っている。

「どうやって、生き延びたんですか?」

 私の質問に、林さんは少しためらいを見せた。私は続けた。

「毎日、いっぱいいっぱいなんです。仕事も中途半端だし、子育てもちゃんとできてないし。夫ともなんとか一緒には暮らしてるけど、仲良いわけじゃないんです」

 脳裏をよぎるのは、SNSの投稿たちだった。私くらいの三十半ばの女性たちは、それなりの自己実現を果たしている。子供へも愛情にあふれた投稿が多い。夫とデートしているママ友もいる。私には何もなかった。

「そうねえ……」

 林さんは、どちらかと言うと窓の方を見ながら言った。

「子供が小さいうちは、無理でしょう。あれもこれも一度にやろうとしても、難しいわよ」

 きっぱりとした声、凛とした態度。シニアの女性とは思えない程たくましかった。戦禍を潜り抜けて来た者だけが見せる強さだった。

「できることだけ、やれば良いの。できないこと、例えばお掃除とかは私たちがやるからね」

 そのために来たんだし、と付け加えて、彼女は笑った。あたたかく、深い笑みだった。

―――あぁ、そうか、

 私は思った。

―――全部うまくやろうとしなくても、良かったんだ。

 部屋は綺麗でなくてはならない。子供には笑顔で接しなければならない。夫婦仲は円満でなくてはならない。こんな呪いにかけられていた。齢七十の婆さんは、王子様のように、私の呪いを解いてくれたのだった。

 

 いつの間にか林さんは、無駄のない動作で部屋を片付けていた。床から物が消えていく様子は、まるで私の頭の中から余計なものが取り除かれていくかのようだった。家よりも散らかっていたのは、私の頭の中だったのだ。また部屋がぐちゃぐちゃになっても、きっと上機嫌でいられる。そんな予感が春の日差しとともに、部屋に満ち始めていた。

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