3-3
窓から差し込む太陽の光で、澪は目を覚ました。
スマートフォンの画面を確認すれば、時刻は午前5時を少し過ぎたくらいと表示されている。
澪が元夫である橘直哉から離婚を切り出され、雨の中をさ迷っていたあの日を境に、すっかり季節は春めいて日の出も早くなった気がした。
セットしていたアラームよりも早く目覚めてしまったため、澪はアラームをオフにしてテキパキと身支度を始める。
誠光から連絡用として与えられたスマートフォンは専ら目覚まし時計と彼からの連絡用として、その機能のほとんどを使いこなせていないが、澪にはそれで十分である。
誠光から与えられた部屋は澪が居心地よく過ごせるようにインテリアが整えられ、何不自由ない、という文言通りの生活を送らせてもらっていた。
「えっと、今日はこれにしようかしら」
クローゼットの中で端から端まで綺麗に並べられた服も、全て誠光からの澪へのプレゼントだ。
こんなにたくさんいらない!と澪はあれもこれもと購入する誠光を止めたのだが、
『私が澪のかわいい姿をたくさん見たいんだ』
だから、これは私のわがままなんだよ。と、押し切られてしまったのである。
『そんな、まだ恋人でもないのに……』
『まだということは、いつかはなってくれるのかな?』
澪は反射的に自分の口を覆い、失言してしまった己を恥じた。
そんなつもりじゃなくて。と口ごもる澪を誠光は「意地悪してしまったね、すまない」と一切悪びれる様子なく澪の額に口付けを落とすので、澪はますます顔を上げられなくなってしまった。
その時のことを思い出し、澪は羞恥に身をよじらせながらもなんとか今日の服装を身につけ、最後にお仕事用のエプロンをつける。
そして、洗顔などで身を整えたあとは朝食の準備に取り掛かった。
初めは空っぽだった冷蔵庫も、今やあらゆる食材が詰め込まれそのお役目をきちんと果たしている。
(今日は誠光さんリクエストの和食ね)
白米は昨日の夜のうちに洗っておいたので、炊飯のスイッチを入れるだけ。
眠っている間に水に漬けているので、早炊でも十分水分を含んだもっちりおいしいご飯になる。
なので、ご飯を炊いている間におかずの準備をする。
今日はえのきと玉ねぎのお味噌汁に、スーパーで買ってきたお漬物を少しと、サバの塩焼きだ。
料理を作るのに苦痛を感じないのは、久方ぶりだった。
祖母が生きていてお手伝いをしていた頃の楽しい感覚が蘇り、澪は生き生きとし始めていた。
怒られたり、捨てられることがない環境というのは、それだけで澪の傷ついていた心を癒したのである。
(そろそろ起こさなきゃ)
そうこうしていると、誠光の起床時間が近づくので澪は料理をする手を止めて、主人の部屋へと向かう。
念の為ノックもするが、返事が返ってきたことは無い。
澪は静かに扉を開けると、カーテンが締切られた暗い部屋に眠る主人の姿を見つける。
それから暗くないと熟睡出来ないという遮光カーテンを開けて、それから主人を揺り起こす。
「おはようございます、誠光さん。朝ですよ」
「ん……」
誠光は朝に弱いらしく、1度声をかけただけでは滅多に起きない。
初めはあんな完璧そうな人にこんな一面があるなんて、と驚いた。
「誠光さん、お仕事に遅れてしまいます」
「んー……澪……Goodmorning……」
それまで閉じられていた青い瞳が澪を捕らえる。
まだ気だるげな朝の掠れたテノールの声音は大人の色気が垂れ流しで、澪はほんのりと頬を染めた。
「今日は誠光さんリクエストのサバの塩焼きですから、早くご準備なさってくださいね」
「ああ……それは早く準備しないとね……くあ……」
誠光からが上半身を起こし、乱れた髪を整えるちょっとした仕草に、澪は不覚にもときめいてしまう。
「それでは、私は準備に戻りますね」
澪は朝から心臓に悪すぎる主人を残し、そそくさと退室するとキッチンへ戻り2人分の食事を用意する。
本当ならメイドと雇い主が同じテーブルで食事をとる事はないのだが、誠光の強い希望だった。
『ヨーロッパには個食の習慣がなくてね。せっかく澪がいるんだから、一緒に食べたい』
文化の違いなら、と澪は誠光のお願いを承諾し、誠光が家にいる間は食事を共にするようにしている。
そうして澪がダイニングテーブルに料理を並べ終わる頃、身支度を終えた誠光がやって来る。
今日は初めてベストタイミングで用意ができた、と澪は心の中でこっそりほくそ笑む。
「今日も素晴らしい
「ありがとうございます……」
嬉しい、嬉しい。
誠光はいつもちょっとしたことで、澪を褒めてくれた。
掃除も、料理も、洗濯も。
極々普通の、当たり前の家事を誠光は褒めて感謝してくれる。
『家事というのも立派な仕事だ。仕事の成果に応じて、正当に評価するのは当たり前じゃないのか?』
誠光は家事という名の労働を馬鹿にしたり、見下したりしない。
澪はエプロンを外し、誠光と共にイスに腰を下ろした。
「「いただきます」」
2人で手を合わせ、朝食を取る。
誠光は日本人顔負けの綺麗な箸の持ち方をしていて、塩焼きも器用な箸捌きで食べ進めていく。
「ずっと思ってたんですが、誠光さんお箸の使い方綺麗ですよね」
「ああ、祖母が日本人で元気だった頃はよく日本食を食べさせてもらっていたんだ。これは、その時に」
澪の料理を食べているとあの祖母の味を思い出す、と誠光は幼い頃の記憶に思いを馳せているようだった。
「一緒、です」
「澪も?」
「私も祖母に料理を習ったんです」
あのギャンブル狂の両親を見かねた祖母が澪を引き取り、高校に上がる頃と同時期に祖母が病死するまで澪を育ててくれた。
そんな他愛ない話にも、誠光はちゃんと耳を傾けてくれる。
澪も誠光の仕事の話を聞かせてもらったり、英国での暮らしを聞かせてもらったりして、朝食を終えると誠光を玄関まで送り出すのが澪の仕事だ。
「今日は会食だから、夜はいらないよ。帰りも遅くなるから、先に寝てなさい」
「分かりました、お気をつけて」
「ああ、行ってきます。いい子で待ってるんだよ」
「……はい」
子供じゃないのに、と喉元まででかかった言葉を澪は飲み込んだ。
名残惜しそうな誠光を送り出した後は、食器を洗い洗濯機を回している間に部屋の掃除機をかける。
それから、今日は近くのスーパーで鶏のもも肉が安い日なので買い出しに向かう。
澪が誠光の元で住み込みのメイドとして暮らし始めて1ヶ月。
桜の木々は新緑に染まり、夏の匂いが近づいていた。
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