3-1 新生活

 澪は目の前にそびえ立つ超のつく高級マンションを前に、ごくりと生唾を飲んだ。

 俗に言う、タワーマンションというものに圧倒されて、今から足元がふわふわとするような錯覚に陥りそうになる。

 まだエントランスホールにさえ入っていないのに緊張しきりの澪を見て、誠光は安心させるように穏やかな笑みを向けた。


「そう固くならないでいいよ、と言っても無理か」

「あっ……いえ!頑張ります!」

「うん、見事に緊張しているね」


 誠光にとってはなんでもないことなのかもしれないが、澪にとってはあまりにも場違いすぎて、目眩さえしてきそうになっていた。


(やっぱり、住み込みのメイドなんて私には荷が勝ち過ぎたんじゃ……)


 春の雨に打たれ、低体温症になりかけていた澪を助けてくれたのは、イギリスを拠点とするクロスフォードグループの御曹司の誠光であった。

 何故かは分からないが、誠光の経営する高級ホテルのスイートルームで介抱してくれただけに飽き足らず、澪に住む場所と仕事まで与えてくれたである。

 何か裏でもあるのかとも思ったが、誠光にとっては慈善事業の一環らしく、澪に対して何の見返りも求めていなかった。


 どうしてよりにもよって、こんな私に良くしてくれるんだろう。という疑問が澪の中で燻り続けていたが、今はとにかく明日のご飯にすら困っている状況なのだ。

 藁にも縋る思いで澪は誠光の提案を受け入れ、今日から誠光のジェネラルサーヴァントとして働くことになったのである。


「さ、中に入ろう。まずは郵便受けの番号から覚えてね」


 誠光の背中に隠れるようにして、澪はいよいよマンションのエントランスホールへと足を踏み入れた。

 このエントランスホールだけで澪の実家が何個入るのだろうと思いつつ、郵便受けの場所や番号、宅配ボックス、フィットネスルームにバーベキューガーデンなどのエグゼクティブクラスの外国人向けの設備。そしてホテルのコンシェルジュや警備員の説明を受けた。

 それから誠光からカードキーを受け取り、エレベーターで上昇していく。


「このカードキーをかざせば、自動で部屋のある階に向かってくれるんだよ」


 見たことない設備がてんこ盛りのマンションに、澪は内心ワクワクが止まらない。

 入る前は怖かったけれど、1歩踏み出してしまえば平気だったようだ。

 そして誠光のカードキーで止まった階数は、28階。

 玄関の扉はもちろん二重のオートロックである。


「さ、入って。家の中の配置も説明しなくては」

「お邪魔します……」


 玄関を入ると、入ってすぐ左右に全身が映るほどの大きな鏡と何十足という靴がしまえるほどのシューズボックスが澪を出迎えた。

 そこで澪はふとある事に気がつく。


「ここ、靴を脱ぐところがないんですね」

「ああ、外国人向けのレジデンスだからね。澪はそこに用意したスリッパを使うといい」


 日本国内にもこうした外国人の様式に合わせた家があるだなんて、知らなかった。

 澪は靴のままスタスタと進んでいく誠光を見て、まさかのカルチャーショックのようなものを受けるのだった。


「でもバスルームにはちゃんと湯船があるから安心してくれ」

「……お気遣いありがとうございます」


 猫足のバスタブなんて、初めて見た。

 その後もキッチンの横にある小さなカウンターバーに澪の背丈ほどもあるワインセラーと、まるで洋画のセットのようなインテリアに澪はお行儀がよろしくないと思いつつ、キョロキョロしてしまう。


「澪に使ってもらう部屋なんだが、澪の好みが分からなくてまだ何もないんだ。今度の休日一緒に見に行こう」

「そんな、お構いなく!」

「そんなに恐縮しなくて大丈夫だよ。むしろ部屋を持て余していたくらいだから、澪が好き使ってくれた方が嬉しい」


 恐縮しなくても、と言われても。

 澪は所在なさげな様子で、眉を八の字にした。


 橘家にあるもの全て直哉の物で、澪の物は何一つなかった。

 澪の使うハンカチも、掃除機も、お風呂やトイレだって全て直哉から状態だったのである。

 実家にいた頃だって、下手に物を持つとギャンブルで負けた両親に売り飛ばされる可能性があったので、必要最低限の物しかなかった。

 そんな状態から急に好きに使っていいと言われても、澪にはことであった。


「まあ今はまだ緊張しているだろうし、他人の家だという認識だろうからね。徐々に慣れる」


 それから、ここが私の部屋だよ。と誠光は澪の部屋だと言った隣の部屋の扉を開けた。

 澪は恐る恐る誠光の後に続いて中へ入ると、全体的にシックにまとめられたシンプルな部屋が広がっていた。


(なんというか、あんまり生活感がない感じ)


 本当に家では寝るぐらいしかしていないのだろうな、というほど小綺麗に収まっていて、まるでモデルルームのようであった。


「澪は今、体調はどうかな。少し疲れた?」

「いえ、全然大丈夫です」

「ならまず必要最低限な物を揃えようか」

「それも大丈夫です!お給金をいただいてから、自分で揃えますから……!」

「だが……」


 これ以上誠光に迷惑はかけらない、と思って咄嗟にそう言った澪であったが、誠光は少々困った表情を浮かべる。


「生憎ここには私の使う物しかなくてね。もちろん貸しはするけど、澪の小さい体だと男物用は大きすぎやしないかい?」


 必要最低限の物とは、服や下着のことを指していたのだろう。

 そのことに気がついた瞬間、澪の顔はボッと音が鳴りそうなほど赤面した。


「ごっごっごっ、ごめんなさい!必ず、代金はお返ししますので!」

「必要経費だよ」

「いえ、必ずお返しします!」


 澪にとって誠光は恩人であり、雇用主なのだ。

 そんな人に下着を買わせるなど、恥ずかしくて仕方がない。

 なのに、誠光は少し悲しそうな表情をするので、何故か澪の心を罪悪感のような物がチクリと刺してきた。


(私ったら、誠光さんに気を遣わせてばかりね)


 本当なら、澪が誠光に奉仕する側だというのに。


 ーー気の利かない、役たたずの女。

 ずっと言われてきた澪への言葉の数々が、改めて澪を責め立てる。


 澪はどうしようもなく申し訳なさが込み上げ、視線を床に伏せると誠光がそうだ、と明るい声を発した。


「澪にこの家で覚えてもらいたい大事な仕事がある」


 誠光はそう言ってキッチンに戻ると、何やら食器を取り出して何かの準備をし始めた。


「あの、誠光さん。私は何をすれば……」

「今日は澪は見ているだけでいい。それから、ゆっくり仕事を覚えてくれ」

「でも、何もしないという訳には」

「一流の仕事をこなしたくば、まずは一流の仕事とはどんなものかを知らなくてはいけない」


 誠光の言葉に、澪はハッとした。

 今までのプライベートに近い誠光の姿ではなく、彼のホテリエとしての一面を澪は垣間見ている。


「日本料理を知らない者に日本料理は作れない。バロック建築を知らない者にバロック建築は建てられない。一流の味を知らない者に、一流の味は再現出来ないーー澪なら、私の言いたいことが分かるね?」


 誠光の問いに、澪は静かに頷いた。


「知る、ということは仕事をする上でも日常生活を送る上でも大事なステージだ。焦らなくてもいい、澪はまだ見習いなんだ」


 はい、と澪が小さく返事をすると誠光の黒い手袋で覆われた手が澪の頭を撫でた。


 頭を撫でられるなんて、いつぶりだろう。


(心が、ふわふわする)


 誰かに期待されることが、嬉しいと感じるなんて。


 澪は誠光の慣れた手つきを食い入るように見つめ、彼のこだわりの1つ1つに聞き入った。


 誠光は20歳そこそこの澪よりもずっと大人で、これまで歩んできた人生経験が違う、頼れる立派な男の人だった。


 そして、ダイニングテーブルに用意されたを挟み、澪と誠光はイスに腰を下ろす。


「さ、クロスフォード式英国アフタヌーンティーを召し上がれ」

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