2-3
「おお、マサミツ!麗しのプリンセスの容態はどうだった?」
東京港区の一等地にそびえ立つ日本でも有名な外資系ホテルの1つ、ロイヤルホテル クロスフォード東京。
中でもヨーロッパ中の家具や調度品をかき集め贅を凝らした極上のスイートルームで、すやすやと眠っている澪の穏やかな表情を思い浮かべて緩んでいた誠光の表情が一瞬で固まった。
「……お前の料理を大層気に入っていたよ」
「Bien!パティシエからシェフに
友人の部屋を訪ねるかのような軽い足取りで、誠光の仕事部屋に入ってきた金髪の男のはルイ・アントワール。
誠光の私的な用件の為に本来なら業務外の仕事を請け負ってくれた絶滅危惧種である”親切なフランス人“ーーではなく、恋だ愛だに首を突っ込みたがる”生粋のフランス人“である。
しかし、その実力は折り紙付きで元シャンゼリゼ通りの有名菓子店で修行を積んでいた、ロイヤルホテルクロスフォード東京のお抱えパテシィエなのであった。
「ボクも後でそのプリンセスに挨拶しに行ってもいいかな?」
「だめだ。お前はまだフランス人の距離感覚が抜けてないだろう」
「えーっ!マサミツばっかりずるい!マサミツのけちんぼっ」
「またそんな日本語ばかり覚えて……」
ルイは何やら少しご機嫌斜めの誠光をジロジロと見つめて、自身の金髪の髪を撫でつけ、得意げな表情を浮かべる。
「それとも、プリンセスはマサミツご自慢のフェイスなんかよりも、ボクの芸術的料理センスに惚れ惚れしちゃったかな?」
誠光は自分がどれだけ話しかけても困惑したり、目を逸らされていたのにも関わらず、あの牛乳粥を一口食べた瞬間表情を明るくさせた澪を思い出して、がっくりと項垂れた。
日本人は生来、食に好奇心旺盛でこだわりの深い人種だとは聞いていたが。
できれば自分の持っている何かで、彼女の喜ぶ顔が見たかった。
いや、喜んでいる顔を見れたのは喜ばしいことなのだが。と、誠光の胸中は複雑な気持ちでいっぱいになっていたのである。
「ぷぷっ!マサミツってば、全然相手にされてないんじゃん。もしかして、1年前に会ってたことも覚えてもらってなかったとか?」
これまた痛い所をつつかれた誠光が何も言い返せないでいると、「図星だろ!」と人の不幸を面白がり始めた。
「マサミツが片想いなんて、生まれて初めてじゃない?今まで『女には困ってませんけど??』とか、『女なんて何もしなくても向こうから湧き出てくる〜』みたいな澄ました顔したくせにね!よりにもよって人妻を好きになるなんて!」
「ルイ。君にはロンドンへの転勤を命じる」
「絶対ヤダヤダ!まだ日本のアニメ聖地巡礼しきってないんだから!」
日本人のアニメ・マンガ・ゲームなどのサブカルチャーを愛してやまないルイにとって、誠光からもたらされた日本への転勤は願ったり叶ったりの話であった。
今では休日の度に秋葉原へ足を伸ばしたり某アニメの聖地だという場所に繰り出したり、休日にも電話がかかってくる心の休まらない誠光よりも、ルイの方が日本での生活を満喫している様子である。
「それで、彼女のことについては何かわかったの?」
「いや、医者に対しても頑なに身の上については話さなかったそう、なんだが」
デスクの上に置かれているのは、医者が澪について記した1枚のカルテ。
深刻な面持ちでカルテを見つめる誠光を不思議に思ったルイが目線をカルテに落とすと、彼の顔からも表情が消えた。
「体の複数箇所に内出血の跡……?」
「しかも、服を着ていれば見えない部分にな」
苦々しい表情を浮かべる誠光の呟きに、ルイはそれって、と言葉を零すと誠光は彼の言わんとしていることを見抜いてコクリと頷いた。
「やはり彼女は家庭内暴力を受けていたんだろう」
1年前のあの時、やはり強引にでも彼女をあの夫から引き離すべきだった。
悔やんでも悔やみきれない悔恨の念に、誠光は己の拳を固く握りしめた。
「じゃあ彼女はそこから逃げ出してきたってこと?」
「逃げ出してきたのか、追い出されたのか、そこは澪自身から聞き出さないと分からないな。ただ、1つ言えるのはーー彼女の指輪が消えていた、ということだな」
1年前に見た澪の薬指に嵌っていた指輪が、消えていた。
それだけは確かであった。
「そこはもっとうまく聞き出せよ〜」
「澪はまだ病み上がりなんだ。あまり彼女に心労をかけたくない」
「奥手だなあ」
これだからイギリス人は回りくどくて嫌になるね、とフランス流女性の口説き方を伝授しようとするルイを誠光が睨みつけると、ルイはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「それで、彼女はこれからどうするの?ここで雇うわけ?」
「いや、うちの家で住み込みのメイドをしてもらおうと思っている」
「……没落したといえど、元お貴族様の血筋の考えることは違うね」
「これが最善の策だと思ったまでだ」
澪は身の上を明かすこと、とりわけ公的機関に自分の居場所を知られることを危惧していた。
恐らくあの夫から身を隠したいのだろう。
日本ではよくストーカーの男に殺害された女性がニュースになっている。
それも、公的機関が後に加害者となる人物に情報を漏らしてしまっているケースも少なくない。
「もちろん、1番は彼女の意思を尊重するよ」
彼女にとって、自分はまだ"通りすがりに助けてくれた親切な人"、でしかないのだから。
「人妻に一目惚れしたり、1年間会えずじまいになったり、会えたと思ったら忘れられてたり、つくづく不幸が似合う男だね」
「よっぽどマーマイトの味が恋しいようだな」
「あ、そういえば新しいスイーツ開発の途中だった!じゃあ僕は仕事に戻るね、Adieu!」
わざとらしく退室する理由を並べて走り去って行ったルイに、全くあいつは……と一言多い友人の悪い癖に誠光は小さくため息をつく。
(彼女が仕事の件を断ったとしても、彼女の存在を易々と手放したりなどしない)
誠光がこの世に生を受けてから、33年間こんなに誰かを想うことなど1度たりともなかった。
一目惚れだからか、彼女が既婚者という手の届かない存在だったからか、夫に暴力を振るわれる可哀想な女性だからか。
ーーいや、違う。
白衣澪という女の存在が、誠光を惹き付けてやまないのだ。
まるでエジソンが電球を発明した時のような、この世の理を覆すような、そんな高揚感を彼女から感じるのだ。
そして、いつの日か彼女が自分に愛の言葉を囁くのを夢想して、誠光は目の前に積み重なった仕事の山に着手するのであった。
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