2-2

そんな澪の反応を知ってか知らずか、誠光は悪戯をする少年のように微笑んだ。


「これで君が私になにかされたら、その名刺を持って警察に駆け込むといい」

「そんなこと!」


するわけがない、と訴える澪の必死な顔を見て、誠光はくすりと眦を下げて笑った。

雰囲気は大人っぽいのに、こうして微笑まれるとどこか子供じみていて、不意にドキリとした。


「ただのジョークだよ」

「そ、そうですか……」

「半分はね」

「半分……?」


そうーー、と誠光は黒い手袋越しに感じるまだ少し冷たい澪の手を包見込むと、澪の体がかすかに震えた。誠光はそれを視界の端で一瞥すると穏やかな笑みから一転、真剣な名指しで澪の顔を覗き込んだ。


「今君の立場からすれば、私はただの不審者だろうからね。100%信用しろというのはロンドンで晴れを望むくらい難しいだろう。だから、こうして手綱を握っていて欲しい。君に安心してもらうためなら、喜んで日本の警察にご挨拶しよう」


全ては、澪に安心してもらうため。

そんなことを真剣に言われて、澪は信じられない物を見るかのように目を見開いた。


「そんな……変に思われるのは、私の方です。見ず知らずの私なんかを助けてくださって、ご迷惑をおかけして……」

「迷惑だなんて微塵も思ってない。仮に迷惑だと思うなら、最初から助けていない」


そう言われると、どう返せばいいのか分からない。

澪は思わず困ったように眉を下げると、誠光から助け舟が出た。


「なら、君の口から名前が聞きたいな」

「私の名前、ですか?」

「ああ、さっきのおじさんから聞き出すより、素敵な女性の口から聞いた方が楽しいに決まってる」


さっきのおじさんとは、秘書の相川のことだろう。

わざわざ澪自身から聞きたいなんて、不思議な人だなあと澪は心の中で呆れたように小さく笑った。


「白衣澪、と申します。お医者さんのはくい、にさんずいに零と書いて、澪」

「へえ、白衣はくい白衣しらきぬとも読むんだね。それに、澪という字も初めて聞いた」

「普段ではあまり使われない字ですから……」


澪がベットのシーツの上で、澪、と書いてみせると誠光はより一層楽しそうな表情を浮かべた。


「とても美しい字だ」


外国人らしい感想に、澪はどう反応していいのか分からなくなる。

調子が狂う、というのはこのことだろうかと頭の隅で考えた。


「改めて、澪。どうしてあんな所で傘もささずにいたのか、教えてくれるかい?」

「それは……」


浮気した夫に追い出されて。

と喉元まで出かかった言葉を、澪は飲み込んだ。

いくら親切な人とはいえ、他人の家庭事情に巻き込むのはいかがなものかと、澪の良心が咎めたのである。


気まずそうに視線を逸らし、暗い表情で俯く澪を見て、誠光はならばと話を変えた。


「じゃあ、これから頼れる宛はあるのかい?」


これに対しても澪はうまく答えられなかった。

衝動的に何の計画もなく家を追い出されたので、頼れる人など誰もいない。

実家にだって、帰れない。

でも、これ以上この人に迷惑はかけられないと思い、かすかに頷いてみせた。


「なら、どうしてあんなところにいたんだい?」

「え、と……それは……」


なんとか嘘をつこうとして、何も浮かび上がらず澪は観念して首を横に振った。


「そうか……」


澪の反応を見た誠光は顎先に手をあて、何か考え始めた。

そして、「もし君さえ良ければ」と前置きして、ある提案を持ちかけてきた。


「実は今、仕事が忙しくて家のことが後回しになっていてね。住み込みのメイドを探していたんだ。ちょうどいい機会だから、私に雇われる気はないかい?」


予想だにしていなかった誠光の提案に、澪はえっ!と小さく声を上げた。


「ホテルの従業員として雇うなら、身分証明書や社会保険やらで手続きが複雑だからね。今の君の状態を見ると、周囲に自分の存在がバレるのは避けたいように見える」

「それは、そうなんですが……」


確かに家族に自分の居場所を知られたくない澪にとっては、喉から手が出るほど魅力的なお誘いだ。

しかし、何の学も教養もない澪がこんな凄い人のお眼鏡に叶う働きが出来るのだろうかという疑問と、そこまでしてもらうのは申し訳ないという気持ちが渦巻いた。


「だったら、私の家に住み込みで働いてくれたら、住む場所も確保できるし、働きに応じて給金も出す。周りにはバレないだろうし、悪くない条件だと思うがーー急に決めるのは難しいだろう」


誠光はおもむろに立ち上がり、カートから折りたたみの小さなテーブルを澪の前に用意すると、慣れた手つきでテーブルに料理を並べた。


「話が長くなってすまない。危うく冷めてしまうところだった」


朝食モーニングがまだだったろうと、澪の眼前に美味しそうな洋食が並べられた。


「本日のメニューは体の負担をかけないよう、メインディッシュは産地直送の北海道産ミルクと新潟産のコシヒカリのブイヨン風味の牛乳粥リオレに、デザートは消化の良いリンゴの摩り下ろした物をご用意致しました」


恭しく胸に手を当てメニューの説明をする誠光から朝食に視線を移し、澪は目を輝かせた。


暖かい食事なんて、何年ぶりだろう。


「……いただきます」


手を合わせてから、澪はスプーンを手に取り牛乳粥をゆっくりと口へ運んだ。


「美味しい……!」


思わず口を押さえ、感嘆の声を上げる。

牛乳本来の味を邪魔しない程度にブイヨンの味がする。

ちなみにブイヨンは日本で言うコンソメの元となる料理なので、日本人の澪でも食べやすい。更にブラックペッパーと合わせて食べれば、くどくなり過ぎず、いくらでも食べられそうだ。

流石ホテルで用意される食事は一味違う。


「やっと澪の明るい顔が見れた」

「やっ、あの……これは……」


食いしん坊だと思われただろうか。

スプーンを自分の口からお皿へ猛スピードで往復するのが恥ずかしくなって、澪は手を止める。


「すまない、あまりに可愛すぎてついじっと見てしまった。私のことは気にせずに好きなだけ食べなさい。おかわりもあるからね」

「ありがとうございます……」


気恥しいけれど、久しぶりに食べた温かい食事がこうも美味しいと、食べる手が止まらないのだ。

澪は誠光の言葉に甘え、彼のことはできるだけ気にしないようにしてスプーンの往復に勤しんだ。

その後おかわりまですると、お腹が膨れたせいか急に眠たくなってきて。


「いっぱい食べて、しっかり休んで、今は体力を回復することだけを考えなさい」


という誠光の言葉に甘えて、澪は住み込みメイドの件をすっかり忘れて、ふかふかのベットで眠りにつくのだった。






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