2-1 目覚めた先は
お湯を沸かすガスの音と、食材を切る包丁の小刻みな音。
澪が世界で1番落ち着く世界で奏でられる音。
この音を聞くのは、随分久しぶりだった。
確か、そう、おばあちゃんがまだ生きていた頃ーー。
『琴葉おばあちゃん』
亡くなったはずの祖母が、台所に立ってお店の仕込み作業をしている。
名前を呼ぶと、祖母はあの優しい眼差しを浮かべ、澪を手招きしてくれる。
『澪ちゃん、味見してくれる?』
『うん!』
おばあちゃんのお味噌汁、だいすき。
上品なお出汁の効いた、具材たっぷりの美味しいお味噌汁。
お客さんからも、呑んだ後の1杯はこれに限ると言われてたお味噌汁。
いただきます、とお味噌汁を口にしようとしたところで突然横から伸びてきた手によって、茶碗が地面へと転がり落ちた。
先程まで祖母が立っていた台所は消え、場面は実家の居間で澪は正座している。
『ったく、子供の癖に一丁前に親に口答えしてんじゃねえよ』
『口答えしてるんじゃなくて、お願いです。このまま仕事も頑張るので、大学に行かせてください。お願いします』
床に頭を擦り付け、お願いしますお願いしますと繰り返した。
自分の稼いだお金を全部父と母のギャンブル代に消えても、文句1つ言わなかった。
だからせめて、もっと勉強がしたい。
もっと勉強して、お金が稼げたらこの家から解放される。
『女に学はいらん。どうせ結婚して子供を産んだら家にいるんだから、必要ないだろ』
そう言って、父が澪の頬を札束でバサバサと叩いた。
ーー澪が稼いだ、今月分のお給料で。
『女がどれだけ努力しても、男には叶わないんだよ』
それに、女の努力なんてたかが知れているーー現に、お前の料理はクソ生ゴミじゃねえか。と、今度の場面は実家の居間から、橘家のリビングに変わる。
澪の作ったお味噌汁を彼女の頭の上からかけ、直哉がニタリと笑った。
『なあにがおばあちゃん秘伝の味噌汁だよ、橘家の人間に対してこんな犬の餌にも満たないモンだすなよ』
(おばあちゃん、ごめんなさい)
ごめんなさい、ごめんなさい。
澪が役立たずのゴミしか作れないせいで、おばあちゃんまで馬鹿にされちゃった。
ーーごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、おばあちゃん。
『ーーもう泣くのはおよしなさい、澪ならもう大丈夫』
♢♢♢
「おばあちゃん……?」
ふと、目が覚めて澪は呆然と天井を見つめる。
そしてどうやら先程まで見ていたのが夢だったらしいと、安堵に胸を撫で下ろした。
いや、夢は夢でも過去に実際澪が体験したことばかりで、嫌なことを思い出したと目覚めから憂鬱な気持ちになった。
「……あれ?」
しかし、見慣れない天井、買った覚えのないベットの寝具たちに気づき、澪はそろそろと上半身を起こすと、これまた見覚えのない部屋に目を瞬かせた。
天井から吊り下げられた豪華なシャンデリアに、天蓋付きのベットはシルクのシーツに包まれ、部屋は信じられないほどに広い。
ベットの傍には花が飾られ、遠目にあるテーブルの上にはフルーツが並んであった。
まるでテレビで見たホテルの豪華な部屋のようだ。
(えっと、確か私は家から追い出されて)
離婚届を役所に出して、それから桜の木の下で休憩して、というところで記憶が途切れていることに気づき、澪はドキリとした。
「まさか、ここ病い」
「大病院の特別室でもこんなに豪華じゃありませんよ」
突然聞こえてきた声にビクリと体を震わせると、声の主は失礼しました、と完璧なお辞儀を披露した。
「一応ノックはしたのですが、驚かせて申し訳ございません。わたくし、クロスフォード様の秘書を務めております。相川と申します」
「は、はじめまして……たち、白衣澪と申します。ご迷惑をおかけして、すみませんでした。すぐに、ここを出ますのでっ」
クロスフォード、秘書。
澪には馴染みのない言葉の羅列が引っかかったが、迷惑をかけてしまったという気持ちでいっぱいで、澪はすぐさまベットから出ようとするのを相川が押しとどめた。
「いけません!まだ体力が回復しておりませんので、無闇に動き回るのは危険です」
「でもっ」
あの両親を呼ばれるのだけは、絶対に避けなければ。
だから、どんなに辛くても警察にも行かなかったのに。
そんな澪の考えを見透かしたかのように、相川はふんわりと微笑んだ。
「ご心配なさらず。ここは病院ではなく、クロスフォード様の経営するホテルでございます。個人情報の管理は徹底しておりますゆえ、ご安心ください」
「あの、どうしてホテルにわたしが……」
「それは後ほどクロスフォード様ご自身の口からご説明されるかと思います。とりあえず今は当ホテルの医師から診察がありますので、少々お待ちを」
朝食もその時に、と相川が部屋を退室すると入れ替わるようにして白衣姿の男性が入ってきた。
澪は何が何だか分からないまま、診察を受け、しばらくは安静にするようにと言いつけられる。
そして澪は低体温症になりかけていた、ということも。
(相川さんの話からすると、そのクロスフォードっていう人が助けてくれたのかしら)
部屋の窓から差し込む太陽の光と、春の清々しい青空を見ていると、昨日の大雨が嘘だったように思える。
むしろ、今が夢で目が覚めたら未だ大雨が澪の体を打ち付けているのでは、と思えてくる。
試しに自分のほっぺたを抓ってみて、しっかり感じる痛みからこれは現実だと教えられた。
そうこうしていると、今度はしっかりと部屋の扉をノックする音がして、澪は恐る恐る「どうぞ……」と声をかける。
「目が覚めてよかった、心配したよ」
その台詞と共に現れたのは、すらっとした背の高いスーツ姿の美丈夫であった。
ダークブラウンの髪は部屋に差し込む光を反射して艶めき、穏やかな海のような青い瞳は優しく澪ただ1人を見つめている。
(ホテル経営している人って、こんなに若いの?)
てっきり、先程の相川と変わらぬ初老ぐらいの人かと想像していたので、澪はびっくりして言葉に詰まってしまった。
そんな驚き言葉に詰まっている澪に対して、美丈夫はカートを押して澪のベットの傍までやってくると、
「ここに座ってもいいかな」
と、澪のいるベットの端を指さした。
「だっ大丈夫です」
許可を取らずとも、このベットの所有者は澪ではなく、経営者だという彼のものだろう。
と、考えて澪は彼が女性である澪を気遣ってくれたのだと、はたと気がついた。
今まで気を遣うのは自分ばかりで、遣われたことがほぼ皆無に等しかったので、一瞬気づかなかった。
「それじゃあ、少し失礼させてもらうね。このベットは眠りの心地は最高なんだが、いかせん広すぎて会話するのには向いてなくてね」
そう言われて澪はベットの端から端までの距離を目で追った。
こんなに大きいサイズのベットを澪は見たことがないので、正確な大きさは分からないが少なくともシングルやダブルどころではないのは分かる。
美男子はベットの端に静かに座ると、澪に向き合って穏やかな口調で話しかけてきた。
「改めて自己紹介させてもらうね。私の名前は誠光・アーサー・クロスフォード。誠光と呼んでくれればいい」
そう言いながら、誠光は澪に名刺を差し出した。
素直に名刺を受け取った澪は、その名刺の肩書きを見て再び言葉を失った。
ホテル・クロスフォードグループ専務兼クロスフォードグループ役員、誠光・アーサー・クロスフォード。
澪とはあまりかけ離れた世界に住む人に、くらりと目眩がした。
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