1-3

「えいっ、とりゃっ!あっ、待って待って!」


 ひらひらと舞い落ちる桜の花びらをキャッチしようと、宙を舞う白く華奢な指先。

 揺らめく黒髪は、妖精の羽のように軽やかで。

 きゃっきゃっと無邪気にはしゃぐ声は、オペラの娘役よりも透き通り、耳に心地よい。

 黒き瞳の輝きは、東洋の真珠よりも尊い。


 その姿は、まさしく花と戯れる桜の妖精。


 誠光はその場面を少し離れた木の影から、心を奪われたかのように一心に見つめていた。

 家が元貴族の家系だったこともあり、それなりに絵画の知識を持つ誠光だったが、これ以上に美しい絵を見たことがなかった。


 ゴッホのひまわりよりも大胆かつ繊細な色彩。

 ジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリアよりも儚く神秘的で、モネの睡蓮よりも幻想的で惹き込まれるような美しさ。


 心の中でこの世のあらゆる美しいと呼ばれるものを引き合いに出し、賞賛する誠光の視線など少女には全く届いていない。

 しかし、少女は幾重の戯れの末、ようやく花びらを捕まえたらしかった。


 少女は手のひらの中の花びらをみつめ、小さく微笑むとスカートのポケットからハンカチを取り出して大事にしまった。

 すると少女はふと現実に戻ったらしく、慌てた様子で荷物を持ち走り去っていってしまった。

 誠光は少女の姿が見えなくなってから、ふと我に返り自分らしからぬ思考に頭を抱えた。


(生身の人間を妖精と見間違えるなんて、相当疲れているな)


 いい歳をした大人が恥ずかしい。

 今のは疲労が作り出した妄想に違いない。

 誠光は自分が年端もいかぬ少女に魅入られてしまった言い訳をつらつらと並べつつ、その足は少女が立っていた場所へと向かっていた。


 辺りをキョロキョロと見渡して、人影がいないか確認する。

 人っ子一人見えなかったのだが、誠光の胸に湧き上がるのは誰にも見られていなかったという安心と、少女に声をかけなかったという少しの後悔。


(いや、私みたいな大人アラサーが声をかけるのは犯罪だろう)


 何をさっきからおかしなことをーー、あの少女の視線を真正面からみてみたいーーあの少女の声をもっと聞きたいなどとーー世迷言が湧き上がってくるのか。

 誠光は誰にも見られていないことをいいことに、盛大なため息をつくと、ふと足元に落ちている物に気がついた。


 それは、少女が桜の花びらをしまっていたハンカチだった。


 ゾクリ、と背中が粟立つ。


 ーーこれは、神の導きなのだろうか。


 そう、誠光には何の下心もない。

 ただ、ハンカチを落とした少女に届けるだけだ。


(日本では落し物を届けるのが一般的だからな)


 少女に声をかける動機を得た誠光は少女が走り去っていった方角に向かい、歩くスピードを上げた。

 神に祈りを捧げるなんて、随分久しかった。


 どれだけ走ったか。

 予感めいた何かに背中を押され、誠光は少女の後ろ姿を捕らえた。


「あのーー」

「何寄り道してんだッ!このクソ女がッ」


 声をかけようとした誠光の声を遮るようにして、男の怒号とほぼ同時にパァンという乾いた音が響いた。

 そして、少女の体が乾いた音と共に崩れ落ちるのを見て、誠光の頭は急速に冷めていった。


「買い出しにいくだけでどれだけ時間かけてんだよッ!ほんと使えねぇなぁ!?」


 唾を撒き散らしている男の指輪と、少女だと思っていた娘の指に嵌っている物が番だと気づいたからではない。

 周囲にいた人々が、我関せずと素通りしていくのに我慢ならないからではない。


 あの可憐な妖精に手をあげ、暴言を吐く男に我慢がならなかった。


「Excuse me」


 腹の奥底に湧き上がる憎悪を微塵も感じさせない、誰もが聞き惚れるような滑らかな英語クイーンズ・イングリッシュで声をかければ、男は驚きに目を見開き誠光の顔を見上げた。


(品も威厳もない、己の妻を所有物だと勘違いしているクソ野郎だな)


 誠光の侮蔑のこもった冷たい視線に、男は突然声をかけてきた外国人に身震いをしつつ、馬鹿にされまいと虚勢をはる。


「な、なんだよ……。道を聞きたいなら余所をあたりな」


「そうですね、あなたには道よりも女性の扱いに関してどう思っているのかを聞きたいですね」


 先程まで完璧なイントネーションの英語を話していたとは思えない流暢な日本語が誠光の口から発せられたのが信じられない、と男は口の端をヒクつかせた。


「他所の家庭に外人がごちゃごちゃ口出して来んじゃねえ!」

「家庭に関しては何も言っていません。あなたの暴力行為、名誉毀損が犯罪にあたるということをご存知かお尋ねしたいまでです」

「これは犯罪じゃねぇ、躾だ!」

「躾であっても暴力を振るうことは犯罪です。世界医師会WMA国連教育科学文化機関UNESCOの表明をご存知ない?」


 ーーこういうプライドだけは高く、女子供のような弱い立場の人間を虐げるような男はだいたいこういった仰々しい権力や名前には弱いものだ。

 ということを誠光はこれまでの人生の中で、よく知っていた。


 誠光の予想通り、男は悔しげにぐっと押し黙りその怒りの矛先を娘へと向けた。


「クソッ!さっさと立ちやがれ、おい、澪!帰るぞ!」


 男は乱暴に娘の腕を掴み、無理矢理立ち上がらせる。

 掴まれた男の握力の強さに娘は顔を歪め、よろめくとそのまま転んでしまいそうになるのを誠光は寸でのところで受け止めた。


(この娘の名前はミオ、というのか)


 受け止めた娘の体の、あまりの軽さに誠光の心臓は嫌な音をたてた。

 とても結婚できる成人女性の体だとは、到底思えない。


「ご、ごめんなさいっ」


 先程聞いた楽しげな鈴を転がした声音とは程遠い、夫の傍若無人な振る舞いに怯える姿に、更に誠光の心臓はぐっと締め付けられる。


 そして、慌てて誠光の胸から出ようとする澪の耳元で安心させるように「待ちなさい」と囁くと、彼女の体が小さく震えた。


(私にも怯えているのか、それとも)


 いくら横暴な態度とはいえ、夫なる者の前で別の男に触れられているのは居心地が悪いのか。

 誠光は今まで感じたことのない感情を腹の底にぐっと押さえ、澪の手を優しく握り立ち上がらせると、彼女の前に膝まづいた。


「あのっ!」

「じっとしていなさい」


 突然膝まづいた誠光を、慌てて澪が止めようとするが誠光はそれを制止し澪の踵を恭しく持ち上げた。

 よろけた拍子に、彼女の履いていたバレエシューズが片方脱げてしまっていたのだ。


「バランスをとるのが難しいのなら、肩を持ってくれてもいいからね」


 本来なら、彼女を抱き上げ座れる場所に移動してから履かせたいが、彼女は既婚者だ。


 今すぐ彼女を攫ってしまいたいーー誠光は自分の中に湧き上がる衝動を堪えながら、彼女の小さな足にバレエシューズを履かせる。


「それから、これを」


 本来の目的であるハンカチを彼女に握らせると、ようやく俯きがちで視線が合わなかった彼女が誠光の顔を見つめた。


「どうしてこれを……」

「それは、秘密です」


 唇に指をあてて、微笑を浮かべながら片目を瞑ってみせると彼女の表情がほんの少し綻んだ。


 ーーなんと美しく、儚い笑みだろう。


 そんな感傷に浸る間もなく、痺れを切らした男の手によって澪は誠光の傍から強引に引き剥がされる。


「帰る!」


 澪は男の手に引かれるようにして、彼女との距離はどんどん開いていく。


 今すぐに日本の警察を呼び、彼女の保護を訴えるべきだろう。

 しかし、民事に介入は出来ない。

 彼女自身が希望しなければ、周囲が何をしても意味がない。

 しかし、このまま彼女が連れていかれるのは嫌だった。


「仮にも夫なら、妻は大切に扱いなさい」


 その声は果たして、あの男に届いたのかは誠光には分からない。

 ただ、彼女が少しでも幸福な日々が暮らせるようにという祈りであった。


 ーーそんな誠光の中で、不完全燃焼な、モヤモヤとした思いを抱えたまま1年が過ぎ去った頃。


 誠光は自分の目の前に広がっている光景に、我が目を疑った。

 あれから、またあの場所に澪が現れないかと通い続けた1年間。


 ようやく出会えたあの時の娘が、誠光の目の前で力無く雨でぬかるんだ地面に横たわっていた。


「大丈夫か!」


 誠光は自身の傘を放り投げ、澪の上半身を起き上がらせ、木の幹にもたれさせた。

 体を支えた時のあまりの肌の冷たさに、誠光は青ざめた。

 まだ春先の冷たい空気の中、雨に打たれ続けた澪の体は低体温症になっているのではないかと直感したのである。


「今すぐ救急車をーー」

「やめて、くだ、さい」


 青白い彼女の唇が、かすかに震えた。


「しかし!」

「お願い、します……家族に、ばれたく、ない……」


 家族にバレたくないとなれば、警察を呼ぶことも出来ない。

 だが、こんな状態の彼女を放置しておくわけにはいかない。

 意を決した誠光は自分が羽織っていたトレンチコートを彼女の肩にかけて、スマートフォンである人物を呼び出した。


「私用なんだが、協力してくれないか」


 電話口に出た人物は、誠光の口から飛び出た話に驚きつつも、すぐさま手配を整えるのだった。




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