第2話 作家と小説の評価について

 新エッセイの第一回は「論語」というカタい内容になってしまったので、第二回はヤワらかい話題にしようと思っていたのですが、昨日(3月14日)、作家の大江健三郎さんが亡くなったというニュースを知ってしまいました。ノーベル文学賞作家が亡くなったニュースなのでエッセイに書いておこう――カタい内容になってしまうけど仕方ない――ということで、第二回は大江健三郎さんが亡くなって考えたことについて書くことにします。


 1994年に大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞したとき、はじめて「大江健三郎」という名前を知りました。80年代、90年代は、いまよりも純文学が読まれない時代だったので、わたしはまったく純文学の作家について知りませんでした。「へえ」と思いましたが、かといって大江さんの小説を読もうとはまったく考えませんでした。どうせつまらないだろうと思っていたからです。


 NHKEテレの「100分de名著」で取り上げられた『燃え上がる緑の木』。わたしが読んだことのある大江作品はこれだけです。しかも第一巻の三分の一くらいで挫折しています(苦笑) なんていうか……偏差値の高い、あるいはIQの高い作風なんですよ。自分に正直な作風すぎて、大江さんと同じくらいの知性を持ち合わせていないと、内容がよく分からないんだと思います。普通の人からは敬遠されてしまう。


 あと、大江さんの死去を伝えるニュースのなかでも触れられていますが、大江さんは思想的に左翼の人なんですよね。大江さんの生まれた時代を考えれば、高学歴の人(大江さんは東大卒)が思想的に左翼なのはごく普通でおかしいことではありません。ただ、1989年にソビエト連邦が崩壊し、資本主義(右翼)VS共産主義(左翼)の争いが資本主義の勝利に終わったことで、潮目が変わったと思います。敗れた共産主義(左翼)がバカにされる時代になったのです。


 大江さんの94年ノーベル文学賞受賞は、共産主義(左翼)が凋落していくタイミングとちょうど合ってしまっているのが皮肉です。わたしは、ふたりしかいない日本人のノーベル文学賞を受賞者なのに、大江さんのメディア露出は少なすぎるように感じていました。どんどん右傾化していく世の中で、左翼的思想の大江さんは偶像として祭り上げにくかったんでしょう。逆に言うと、左翼的な意見が幅を利かせる世の中だったら、大江さんはもっともてはやされていたように思います。


 メディアによる大江健三郎さんの扱いを見ていると、時代を覆っている空気感によって、人の評価は移ろっていくということが分かります。と、同時に時代の空気も時と共に移ろっていくということを忘れないでいないと、その人の本質を見誤ることにつながります。


 カクヨムも時代の空気感に覆われているわけで、いま大盛り上がりで読まれている小説のジャンルも、いつかは時代の空気が入れ替わって読まれなくなります。いまは☆やハートが降ってくるようにあつまる作品も、空気が変わればPVを集めるのに苦労するようになるでしょう。Web作家としては、そのことで自分を見失わないようにしないといけないなと思います。


 ……その前に、わたし自身が読んでもらえる小説を書けるようにならないと(笑笑

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