第31話『街の達人』
妻と一緒に暮らしはじめて、すぐ買ったのは地図だった。『街の達人』の横浜・川崎版を開き、一緒に歩いた道筋を蛍光マーカーペンで辿り、仕上げに日付を書き入れた。
お互い歩くのが好きだったのと、運動不足解消のため、記録として残そうと約束をした。
前の家から横浜駅までは、歩こうと思えば歩ける距離で、そこからみなとみらいは目と鼻の先。更に足を伸ばせば山下公園に中華街、山手の洋館街まで歩いて行ける。
だから、その周辺の道という道はマーカーペンで複雑に彩られていた。
ひとりになってしまっては、マーカーペンを塗ることがない。横浜を舞台にした小説を書きながら、横浜散策が縁遠いものになっていった。
『来ればいいじゃないか』
膨らませた頬、尖らせた口から呟かれた子供の声に、僕はハッとさせられた。
コンコだ、稲荷狐のコンコが僕を、明治の横浜に招いている。
鞄から財布と定期入れ、スマートフォンを掴んでショルダーバックへと収め、僕は駅へと歩き出す。電車に乗って横浜駅で降り立つと、おかっぱ頭から狐耳、たっぷりズボンからふさふさ尻尾を生やした子供が、吊り目を悪戯っぽく細めていた。
『来てくれたんだ! 一緒に行こうよ、明治の横浜に!』
僕はコンコに導かれるまま、中央郵便局脇の道を歩き出した。ここはかつて、
緩やかな左カーブを抜けた先は、高島
『ここの遊郭で、リュウは働いていたんだよ。でも遊郭って、何かなぁ?』
「コ……コンコには、まだ早いんじゃないか?」
『ええ〜!? 僕、三百歳なんだよ!?』
ぷうっとむくれるコンコを引きずり、
『井伊
「知っているよ、滋賀の彦根のお殿様だよ。母方が滋賀だからね、膳所藩士だけど」
『さっすがぁ! このお山は鉄道用地だったんだ。彦根藩士だった人が買い取って、井伊家に寄贈したんだよ』
「それも調べたよ。物語に出来るかは、わからないけど……」
桜木町駅コンコースの柱には、鉄道開業に関する資料の数々が展示されている。ちょっとした博物館状態だ。このすぐ近くには、鉄道開業当初に走った汽車も保存されている。
「この頃はまだ、汽車とブレーキ車にしかブレーキがなかったんだよな」
『へぇ〜。さすが元車掌さんだね』
「ネットの受け売りだよ、明治の客車を模型にしている人のね。でも、物語の鍵になりそうだな……」
馬車道は馬車、ガス灯、アイスクリーム、日本人が営んでいた写真館など日本初、横浜発の記念碑が目白押しだ。行ってしまえばネタの宝庫だったが、物語に出来るのかと僕は眉をひそめた。
『ガス灯と狐火、あいすくりんと雪女ちゃんを組み合わせたじゃないか』
「いや、実はあやかしに詳しくないんだ。写真館を出したいけど、ピッタリなあやかしが思いつかなくて……」
頼りないなぁ、とコンコまでもが眉をひそめて、ぶんぶんと不機嫌そうに尻尾を振った。面目ない、と僕は平謝りするばかりである。
海岸通を南下すれば、開港百五十周年を記念して整備された象の鼻、横浜開港から今に至るまで現役の波止場として機能している。この正面が銀杏並木で有名な日本大通り、突き当たりは横浜スタジアムを擁する横浜公園だ。
「ここって、一番横浜らしい場所かも知れない」
『そうだよね!? 僕も
かつての名前で横浜公園を指したコンコは、機嫌よさそうにぴょんぴょん跳ねた。
開港百五十周年は、僕と妻が結婚した年。互いに「覚えやすいね」と喜んでいたが、それを意識するのは僕だけになってしまった。
「コンコ、先に行こうか」
うん! と頷くコンコに導かれたのは、中華街を抜けた先の元町だった。
「関帝廟をお参りしてみたかったなぁ」
『僕だって神様なんだから、いいじゃないか』
「そうだね、コンコはお稲荷様だ」
神様というのは、嫉妬深い。特に日本の神様は、人間よりも人間らしい。稲荷狐のコンコには、素直に従っておくのが吉だ。
元町商店街から折れる細道、そこには水屋敷通を指し示している看板がある。妻と散歩をするたび気になっていたが、ふたりで訪れたことは一度としてなかった道だ。
『この先が気になるの? ジェラールさんの水屋敷があったんだ、今も貯水槽が残っているよ』
「そうか……行っておけばよかったな」
『今から行こうよ!』
コンコとともに貯水槽へ向かった足を、元町商店街裏を這う細道が止めた。
この道は、妻とよく歩いた道だ。
吸い寄せられるように通りを歩いていく僕の後ろを、コンコは戸惑いながらついていく。有名な高級レストランの背後にそびえる崖の上には、明治横浜の憩いの場だった百段公園が天空に浮く。コンコはちらりとそれを見上げて、商店街を突き進んでいる僕のあとをついていく。
僕は、鳥居の前で足を止めた。
『……神社?』
「そう、元町厳島神社。妻とよくお参りしたんだ」
一礼し鳥居をくぐって、妻との思い出話をコンコに語りかけた。
「たぬきのくだらない寸劇を妻に聞かせていてね、そうしたら妻が信楽焼の狸に寄りかかったたぬきに扮して『雇われ神主になっちゃってさぁ〜』って、急に言い出したんだ」
本当にくだらない寸劇だった。結婚する前に妻が暮らした近所では、実ったメロンをたぬきが食べると聞かされて、メロンを盗んで『おほーっ』と喜ぶたぬきを僕が演じた。
それに端を発して、ことあるごとに食いしん坊でだらしないたぬきの寸劇を、妻だけに披露した。
それに妻が乗っかって生み出されたのが『稲荷狐となまくら侍』に登場する、たぬきの宮司のたぬおさんだった。
「たぬおさんは、妻が作ったキャラクター……」
コンコは、いなくなっていた。
また会えるよね、と僕は神社をお参りしてから、石川町駅へと向かっていった。
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