第38話『いやでも楽しめる算数』
「休憩頂きます」
夕方ラッシュ前の休憩に入った途端、背広の上司が「失礼します」と事務室に入ってきた。僕が会釈をすると上司は、休憩時間だからと気遣いながら、主任試験の案内をした。
「もう落ち着いた頃だし、受けますよね?」
そう尋ねられた僕は、気が進まないが断る理由がひとつもなかった。
主任になれば、改札窓口に立つ時間は短くなり、主戦場が事務所に移る。仕事は圧倒的に増え、扱う金額は大きくなり、助役と駅員のパイプ役、駅員の指導役という立場になる。
しかし定年までの二十数年、扱える仕事に制限がある駅員でいるのも、僕は違うと感じていた。全部は出来ないのは承知の上で、少しでもいいから人に頼らなくていい仕事を増やしたかった。
また、上司の期待も重々承知していた。
妻を亡くしてから半年ほどあと、僕に主任試験の知らせが届いた。前列では、この会社での駅員経験一年以上が受験資格となっていたが、このときだけ僕たちの期別が受けられる経験月数に変更された。
「山口さん、受けるんですか?」
そう主任から尋ねられたが、過大評価は前の会社の二の舞いになってしまうし、下駄を履かされるのはズルい気がして、そのときは丁重に断った。上司も三回忌が終わるまでは忙しいだろうと、そのときは黙って引き下がった。
その三回忌は、とうに終えた。上司は、もういいだろうと期待を僕に寄せていた。主任も助役も主任試験を受けて当然、受かって当然と思っているし、そう口に出している。
しかし僕は、それよりも重大な問題が生じていることに心身ともに落ち着かず、そわそわと腕時計に触れていた。
小説の定時投稿は、出来るだろうか。
この休憩時間の十七時ちょうどを、小説投稿時間に決めていた。いつも同じ時間に投稿すれば、作家読みをしてくれる読者が追いやすい。一般の会社員や学生が家路につく頃、電車やバスで読むだろうと決めた時間だ。
また投稿時間を待つ間、新たな小説も書き進めたかった。舞台の都合から、戦時中で終わりを迎えた『列車食堂』。次は戦中戦後を書きたいと、女学生が路面電車の乗務員を勤めた話を書いていた。
執筆したい、投稿したい、決まった時間に投稿しなければ、読者が離れてしまうかも知れない。焦燥感に背中を押され、僕は覚悟を決めて申し出た。
「はい、受けます」
「それじゃあ書類を置いておきますから、記入して事務所に持参してください。面接の日程については後日、お知らせします」
上司はホッと安堵して、僕の書類棚に主任試験の願書を差し込み、意気揚々とした足取りで事務所を去った。
試験は、今回から面接のみだった。就職氷河期に鍛えられた受け答えをした甲斐あって、試験はつつがなく終了し、僕は主任見習いとなった。
餞別のお菓子を置いて、お世話になったみんなに挨拶をして、管理職が詰める事務所で同期と七日間の机上教習を受講する。その内容は業務取り扱いの再確認と──。
「いいか? 駅員が判断に迷ったら、主任が
精神論だ。駅によって、人によってやり方が違うから、そう教えるしかないのだろうが……。
プロセスが違ってもポイントを抑えて、ゴールが同じであればいい、そういうことなんだろうか。
釈然としないまま教習は進み、日程も残りわずかとなったとき、事務所の所長が僕たち主任見習いに配属駅を告げにきた。どこに行くのか、どんな師匠につくのかと不安の靄にいる僕は──。
出戻りだった、僕だけが。
嘘だろう!? 普通は違う駅じゃないのか!? 餞別を置いた駅に、今度は挨拶のお菓子を置くのか!? また同じ駅という落胆と、よく知っている駅という安心感と、みんなの顔が混ざり合って、腹から湧き上がってくる苦い笑いを必死になって噛み殺した。
机上教習の試験を修めて、ついこの間までいた駅に小さくなって戻っていくと、助役は子供のように指を差してケラケラ笑い、主任は「やっぱりな」と肩を震わせニヤけていた。
「はぁ……また宜しくお願いします」
「ここは特殊な取り扱いが多いからな、知っている人が来るのが一番いいよ」
そう、この会社に入ってから駅員として働いて、これから主任として働くこの駅は、他では考えられない特殊な扱いが多かった。
勤務の穴埋めのために他の駅から臨時で来た方が
「もう来ません」
と言って、自分の駅に帰るのがネタになっていた。穴埋めを頼まれた駅員が、駅名を聞いて断ることもあるそうだ。
逆に、僕が他の駅の穴埋めに行くと
「じゃあ、何でも出来るね!」
と、過度な期待をかけられた。いや、触っていない仕事も多いんですが……。
だから異動せず主任に上がるのも理解出来たが、やはり釈然としなかった。
だが配属されたからには、腹をくくってやるしかない。今まで組んでいた主任のもとで、主任になるため仕事を勉強するんだと意気込んだ僕は、致命的な弱点を露呈させた。
何枚もの書類と多額の現金を前にして、僕は呆然と固まっていた。
「もう一度計算しましょう。まずは紙幣を数えて、次に硬貨を見やすく並べて」
僕は数字に弱かった。上司にもそれとなく伝えていたが、あまり深刻に思われなかった。
清水義範先生と西原理恵子先生がタッグを組んだ「お勉強シリーズ」と言われるエッセイは、どれも楽しく読んでいたが『いやでも楽しめる算数』だけは、まったく頭に入らず楽しめなかった。
織田作之助の「放浪」も、細かく書かれた金銭の出納が理解出来ず、何の印象も残らなかった。
主任なんて、もう無理だ。そう諦めながら収入金を整えて、書類と照らし合わせると、どういうわけだか合っていた。何故合っていたのかが、どれだけ考えてもわからなかった。
「山口さん、お疲れ様でした。一服してください」
師匠の勧めで肩を落として喫煙所に行き、紫煙を吐いてスマートフォンに目をやった。
主任になっても、僕は小説を書いていられるのだろうか。
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