第41話『鎌倉ものがたり』
僕と同い年で、あまりに巻数が多いから西岸良平先生の『鎌倉ものがたり』を買い集めるのは、同棲を機に断念して売ってしまった。
西岸良平先生は昭和ノスタルジー漫画で有名だが、実はSFも描いており、この作品は妖怪ものである。鎌倉が舞台だからと期待した母が、妖怪事件メインになって少し残念そうにしていた。
西岸良平先生いわく、鎌倉はそういう土地なのだそうだ。
その話をしたら妻も、妻のお母さんも好きだったと聞かされた。買い直そう、と決めたものの巻数の多さに尻込みし、結局コンビニで販売されるテーマごとにまとめた本を数冊買って、今に至る。
何にせよ、僕が鎌倉に足繁く通うようになったのは、この漫画の影響で間違いない。
隠れ里の稲荷の話は、僕が追いかけていた中では描かれていないはずだが、どうなのだろう。
本音を言えば、あまり押しかけてもらいたくないから、出来れば取り上げてほしくない。軽い気持ちで来る場所ではないと、身を持って知っているからでもある。
住宅街の奥の奥、隅の隅にひっそりと佇んでいる神社ながら、参拝客が途絶えることがない。鬱蒼とした谷戸の突き当りにまで伸びる石段、熱心に信仰する人々が寄進した鳥居、そこかしこにおわす白狐の焼き物が、浮世離れした雰囲気を醸し出す。
鳥居のトンネルに足を踏み入れた、その瞬間。僕は石のように口を開けなくなってしまった。それを横目に見た白井も、口を固く結んでいる。
斜面の中腹、少しだけ開けた場所に瀟洒な拝殿が構えてある。木立に囲まれた境内は、明らかに周りとは空気が違う。
二礼、二拍手、合掌。
閉ざした口をほんの少しだけ開き、在所と名前と願いを呟く。
(『列車食堂』が本になりますように……)
一礼すると、ようやく僕は喋れるようになった。
「本殿もお参りしよう」
「ウッス」
拝殿裏の階段を上がれば、無数の白狐に囲まれた本殿がある。そこでも改めてお願いをし、拝殿脇の社務所を白井が覗く。
「御守り買っていこう」
前の会社で出世を願って、制度に阻まれながらも叶ったので、白狐を奉納したことはあるが、今日は遠巻きに白井の様子を伺うだけにした。
「それじゃあ、境内を見て回ろうか」
「山口さん、蛇がいますよ」
白井が指差した先、観音様を納める小さな祠を、子供の蛇が這っていた。幽玄な雰囲気と相まって、これはお稲荷様の返事なのかと思わず目を奪われてしまう。
蛇が祠の中へと入って、僕たちはようやく現世に帰れた。
「じゃあ、下界に降りようか」
階段を降り、鳥居を抜けて、お稲荷様の緊張から開放された僕は、背中を丸めて息を吐いた。白井はその様子にキョトンとしている。
「ああっ!……怖かった」
「そうすか? 俺は全然」
「お稲荷様に、歓迎されているのかもね」
やった、と白井は素直に喜んだ。合う合わないは人によりけりではあるが、こんな彼を妬むライバルは、どんな人物なんだろうか。
最後の締めにと横浜駅に出て、兄弟子に教わった立ち呑み屋に落ち着いた。朝からずっと一緒にいるのに、互いの話はまったく尽きない。
僕はスマートフォンの画像を開き、執筆中の小説の資料を白井に見せた。
「エアーブレーキが火を吹くって、どういうことだろう? これがわからないんだよ」
「いや、あり得ないですね。路面電車なら直接制御なんで、いきなり全段投入すればマスコンが火を吹きますけど。ブレーキ排気管のそばに火元があれば別ですが」
「やっぱり勘違いか、ありがとう。専門家がいて、助かった。今、書いているのに使わせてもらうよ」
僕の話は、相変わらず小説ばかりだ。白井は感服したように……その実、呆れているのかも知れないが、目を丸くして仰け反っていた。
「小説家みたいですね」
「なりたい。夏に配信された小説紹介動画で『列車食堂』を紹介してくれて、食堂車について調べたくなる課題図書って、言ってもらえたんだ。他の本も読みたくなる、そんな小説を書きたいんだ。面白い本はたくさんあるんだから、知らないなんてもったいないよ」
祈りにも似た僕の願いに、白井は黙って頷いた。
この薄く張った空気を破かなければと、僕自身が口を開いて声を弾ませた。
「そうそう。十二月に、車掌の師弟会で旅行に行くんだ」
「いいじゃないですか! どこ行くんですか?」
「熱海、秘宝館に行ってみたいって。偶然だけど、四十歳の誕生日の日に」
「マジすか!?」
と腹の底から笑い合い、馬鹿な話をした末に、そろそろ千葉への電車が、と駅で別れた。
そして、その翌日。休憩中にチェックした白井のチャットに、僕は言葉を失った。
[昨日、俺のライバルが致命的なミスをして、出世の芽がなくなりました。お稲荷様に、願いが通じたみたいです]
そんなに早く!? 僕は言葉を探した末に、慎重に言葉を選んで返信した。
[やっぱり、お稲荷様に気に入られたんだね]
[自分も驚きました。「願いが叶うって、こういうことだぞ」って、覚悟しろって意味だと思います]
げに不思議なことがあるものよ。
僕に思い浮かんだ言葉は、このたったひとつだけだった。
お稲荷様は『列車食堂』書籍化の願いを、叶えてくれるのだろうか。
小説投稿サイトでは読まれにくい時代・歴史ジャンルだが、まずは読んでもらわなければ、はじまらない。そのために、と去年『稲荷狐となまくら侍』を応募したSNSでの小説賞に『列車食堂』を応募していた。
どうか編集者の目に留まってくれ、『列車食堂』を書籍化してくれと、僕は改めてお稲荷様にお祈りをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます