第40話『七時間半』
公募をほぼ断念し『列車食堂』を小説投稿サイトで公開してから五ヶ月が過ぎた、十月のこと。白井が育った町の近くで、妻も育った町の近くで、今は妻が眠る門前町で、主任になった祝いを兼ねて歩き呑みがしたいと、白井が僕に申し出た。
平日の朝、横浜駅で待ち合わせ、前の会社の電車に乗って、よく知る町の玄関を目指す。妻に挨拶をしたあとにコンビニで酒を仕入れて、缶を交わしてラッシュが過ぎた静寂の中、喉を鳴らした。
今日は、作ったつまみを持ってきていない。何故なら
「
これが僕の希望で、他にも白井を連れていきたいところがあり、腰を落ち着けるつもりがなかった。
野島は確かに島ではあるが、三方を埋立地に囲まれていて、あまり島という感じがしない。埋立地の八景島のほうが、地図で見れば島らしい。
が、橋を渡って上陸すれば、平らな漁師町にこんもりとした低い山、町に漂う雰囲気は島そのものであった。伊藤博文の別荘があるのも、そこから海を眺めれば風情の良さから理解が出来る。
「掘ってる途中で、戦争が終わっちゃったんだ」
バリケード越しに、幅広で扁平なトンネルを白井と観察をした。南の横須賀寄りは作りかけで、解説板だけが頼りであった。
「俺の揚げ足を取って、上に行こうとする奴がいるんですよ」
「技術職場は少数精鋭で、上がるのも早いからね。でも、それは実力なんかじゃないな」
などと、仕事や日常の話をしながら、トンネルの反対側へ回ってみる。こちらはコンクリートでそれらしい形になっているが、戦局が悪化した頃の作りだからか崩落の危険があって、やはりバリケードで塞がれている。
見るものも見たし、酒もないしと島を離れて再び仕入れにコンビニへ向かう。その行きすがらの話題といえば、僕には小説しかなかった。
「お陰様で『列車食堂』が大好評で……」
「読みました! C53の……何でしたっけ、あれは知りませんでした」
「43号機ね。C53の流線型は、あれ一台しかいなかったから」
白井は、高度経済成長期に作られた電車が駄目なところも含めて好きだから、戦前の汽車を知らないのは無理もない。
一方の僕は気が多く、子供の頃は前の会社、関西私鉄に趣味が変わり、鉄道史にも興味を抱き、今は神奈川のマイナー路線に心を惹かれる。それは小説にも表れており、小説投稿サイトの一覧はテーマがバラバラである。「どんな小説を書いてますか?」と聞かれれば、困った末に「色々書いています」と答えるだろう。
「話ごとに語り手が違うから、読みにくくない?」
「いや? 一気に読みましたよ」
返す刀で忌憚のない意見を述べる白井は、筆者としてありがたい存在だ。僕はそっと胸を撫で下ろし話を続けた。
公開して、読みます企画に応募した『列車食堂』は称賛の嵐を浴びていた。
筆者の確かな描写力、獅子文六先生『七時間半』以上の読み応え、商業作家が変名で書いたのでは、素晴らしい作品と出会えて光栄──。
恥ずかしながら『七時間半』は、読んでいない。獅子文六先生も名前を知っている程度だと、これを機会に本屋で手に取ってみた。
物語の舞台は、昭和三十年代の東海道本線。新型電車特急に押されて、戦後間もなくからのエースの座から降ろされた客車特急。その食堂車を軸としたドラマで、始業前の準備から厨房の様子まで綿密な取材をしたのだと伺える。
文章の疾走感、それもガタンッガタンッとレールの継目を鳴らす音まで聞こえてくるのは、短い文に読点をたくさん打っているせいか。
しかし『七時間半』は、複雑な人間関係をドラマに仕立て、ひとつの列車をひとつの物語に組み上げている。
僕の『列車食堂』は十年間ほど、回想を含めればもっと長い時間を、短い珍事の連続で描いている。
同じ食堂車が舞台でも、戦前と戦後という違いもある。ちょうど掩体壕の北と南、立派な北側が獅子文六先生で、手掘り剥き出しの南側が僕だろうか。
「何とか、本にしたいなぁ」
「俺は、ライバルを何とかしたいです」
ふたりの願いが口から漏れて、次の行き先が思い浮かんだ。コンビニの前で足を止め、白井を正面に見据えた僕は、弾む心をぐっと押さえて提案した。
「お稲荷様に、お参りに行かない? 怖いくらいによく効くんだ」
「行きましょう! 出世したいです!」
真剣で裏表のない願望に、僕は思わず笑みをこぼした。それでも白井は、固くて縋るような眼差しをしている。
「よし。それじゃあ、酒を抜こう。本当によく効くから、覚悟してくれ」
ウッス、と返事をした白井を伴って、朝比奈峠を越えて鎌倉に抜けるバスに乗った。
朝比奈峠の入口に建つ斎場には、妻が葬儀までの間に安置された霊安室がある。年を越してから駅の近くで葬儀を行ったのだが、忙殺されて会いに行けたのは一度だけだ。
その負い目があって、朝比奈峠を越えるたびに口を噤んで、ちらりと見てはふいっと視線を逸らしてしまう。
坂を登り峠を越えて、鎌倉霊園を横目に坂を下ると、菩提寺のある町から伸びる古道の
お稲荷様は、もうすぐだ。
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