第34話『澄江堂主人』
僕が働いている駅は新興住宅地の基点として機能しており、平日と休日では違った忙しさがあった。
平日は当然、朝夕のラッシュが忙しい。定期券でただ通過していくだけではなく、サポートが必要なお客様も乗降するし、定期券の期限が切れていた、そもそも定期券を忘れた、しかし時間がないなどの対応が発生することもある。
これが休日となれば、商業施設の開店時間に合わせて流動する。たまにしか電車に乗らないお客様、はじめて訪れる町に戸惑うお客様や、そもそもはじめて電車に乗るお客様を案内する。時間と手間暇を要する手続きも、休日に済ませる場合が多い。
平日との最大の違いは、お客様の流れが読めないことだ。駅構内はのんびりしたムードが漂っているが、いつ何が来るかわからないから、駅事務室には薄っすらとした緊張感が張りつめていた。
主任が改札窓口にやって来て、つかの間の開放感にホッとした。引き継ぎを済ませて事務所に戻り
「休憩頂きます」
「どうぞー」
と、いつものやり取りを助役と交わして、持参した手製の弁当を食べる。
空にした弁当箱を洗って乾燥機に入れ、設定したタイマーの時間だけ喫煙所にこもる。作業をしようとスマートフォンを開いてみると、チャットアプリが通知を知らせた。
母親だ。今日は車で、神奈川と山梨の境あたりに出かけたらしい。丹沢土産の食材を冷蔵庫に入れておいたと書いてある。
血の気が引いた、しかしもう手遅れだ、いや万一に備えてあったはずだ、大丈夫だ見られていない、見られていないはずだが本当に大丈夫だろうか、何がどうあれ手遅れだから、祈るか諦めるかのどちらしかない。
人並みの休憩と長い改札窓口業務、ときどき掃除をして最終電車を見送って短い仮眠。始発前に起床して改札に立ち、短い休憩をしてまた改札、後任に引き継ぎをしてから無駄と知りつつ家路を急ぐ。
「ただいま!」
鞄を置くと同時に、テーブルに積み上げている紙に目をやり、安堵した。裏返しで、僕が置いてから動いたような形跡はない。
ここからは、いつものルーティン。二階で留守番をした猫たちに『ごはん』をあげて、激しくねだる『おやつ』をあげて、一階の妻に線香を手向けて
テーブルに戻り、秘密の紙をひっくり返す。それはA4の漫画原稿用紙で、恥ずかしいほど右利きの癖が強く、パースが狂った絵が描いてある。
これは、僕が研究のために描いた漫画だ。
キャラクターを立てた『稲荷狐となまくら侍』は漫画アニメ的な小説だった。文章ならではの表現を意識したが、決してビジュアルを拒んでいない。
ならば、小説と漫画は何が違う? 小説に描けて漫画に描けないものとは何だ? その逆で、漫画に出来て小説には出来ないこととは何だ?
大谷崎と論争した芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』。当時の小説家を漫画家に変えて芥川の晩年を描いた、山川直人さんの『澄江堂主人』の一編「漫画的な、余りに漫画的な」。
文芸的とは、一体何だ。
漫画的とは、一体何だ。
その答えを探すため、僕は文章には出来ない漫画を描いた。
前の会社の駅員だった頃には、すでに原案を思いついていた。プラットホームで車掌にドア閉め合図を送る駅員、彼のアナウンスを密かな楽しみにしているOL、絡むことのない片想いを描いた漫画だ。
ペンを執る前に車掌になって、漫画を描く時間を取れなくなった。しかし漫画の原案は、ずっと頭の片隅にあった。
僕がうつ状態となった回復期、湧き上がる意欲がペンを執らせた。漫画を描こう、それを漫画雑誌に送ろう、漫画原稿用紙と丸ペンを買って……。
漫画を描けるほどには回復していなかった。僕は挫折に苦しんで、無力感に苛まれ、何も出来ないのかと自分を責めた。
その頃の原稿用紙を探したが、目に入れたくないからと、当時の僕は捨ててしまったらしい。改めて漫画原稿用紙と丸ペンを買い求め、思いついてから十八年、はじめにペンを執ってから十年越しに漫画を描いた。
ペン入れを終え、消しゴムをかけた順にスマートフォンに取り込んで、お絵描きアプリで修正しつつスクリーントーンを貼って台詞を入れる。この作業をずっと続けて、いよいよ佳境を迎えていた。
十八年前の作業は、もっと大変だった気がする。山川直人さんに
しかしカラーをスクリーントーンに脳内変換するのも、大変な作業だ。逃げ場はないが、フルカラーのほうが簡単だったのかも知れない。
四苦八苦して描いた漫画をSNSにアップして、イラスト投稿サイトにも上げた。絵が下手なことに目を
とりあえず僕にわかったのは、漫画は作業が大変ということだった。
そして、SNSの反応がいい。視覚による訴求は琴線に触れやすく、フォロワー以外から評価の証がつけられる。
漫画って、凄いな……。日本が世界に誇れる文化のひとつになるわけだ。
この漫画をノベライズしたとき、消えるものは何だろう。それが漫画的というやつ、かも知れない。
コンコが絵になり紙面で活躍する際に、失われるものは何だろう。それがもしアニメ化したら、漫画とはどう違うのか、小説との乖離はあるのか。
頭の中で巡らせたそれぞれのコンコとリュウは、同じでありながら違った存在だと感じられて、僕の手から離れるような気さえした。
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