第35話『ふしぎの国のバード』
駅アルバイト時代の弟子、白井と横浜野毛で呑む約束を果たしたのは、三回忌を終えて妻の誕生日を祝ったあとの、三月末のことだった。
[山下公園とかみなとみらいとか、歩き呑みをしたいんですよ]
[いいね! 横浜駅近くに大きなスーパーが出来たから、とりあえずそこで仕入れよう]
昼前に横浜駅で待ち合わせ、肌寒い海風を浴びてスーパーに向かい、思い思いの酒を買う。下戸の僕はスタンダードを二缶だけ、酒豪の白井はロングを三缶買って、みなとみらいの端っこの臨港パークで
「お疲れ様です!」
「主任、おめでとうございます!」
「あ……いや、ありがとうございます」
まだ未熟な僕はバツが悪そうに縮こまって、苦いご褒美を喉へと流した。
「呑んでばかりじゃ、よくないからさ」
と、僕は忍ばせていたタッパーを開けた。中には、弁当のために作りためた野菜の惣菜を入れてある。
「おっ! ありがとうございます!」
惣菜をつまみに酒を呑み、海を眺めて取り留めのない近況を笑いを交えて報告し合う。
惣菜が尽きたのを合図にして、僕たちは海沿いを歩いていった。
「桜木町に新しいビルが出来てさ、そこに明治時代の汽車が置いてあるんだ」
「いいっすね、行きましょう!」
これをきっかけに、僕の明治語りがはじまった。もちろん『稲荷狐となまくら侍』を執筆した副産物だ。
「山口さん、詳しいッスね」
「そりゃあ、書いたからね」
「実は読んでるんです、アカウントも作りました」
面と向かって読者だと明かされ、僕はたまらなくなり、はにかんだ。本音を言えば、知り合いが書いたから付き合いで読んでいるなら、勘弁だ。面白いから読んでいるなら構わないが……。
商売柄を丸出しにして汽車をくまなく観察し、僕が解説を挟んでいく。もともと鉄道史に興味があるから、僕にとってはお手の物だ。
「ここから、明治を辿っていこう。横浜開港当初の波止場、象の鼻があるんだ」
「すみません。その前に酒、買っていいですか」
そうだった。今日の目的は明治横浜観光ではなく、呑んだくれることだった。
桜木町駅前のスーパーで酒を仕入れて、貨物線跡の遊歩道を辿って明治に触れる。横浜を舞台に執筆した僕は、観光ガイドが出来るまでになっていた。
ただし明治時代限定。僕の目に映っているのは、探検家イザベラ・バード『日本奥地紀行』のコミカライズ、佐々大河先生の『ふしぎの国のバード』で描かれた、真新しい洋館が整然と並ぶ横浜だった。
それらは関東大震災で壊滅し、街を埋め尽くしているビルの下と、瓦礫で築いた山下公園に埋まっている。
「芸術劇場のすぐそばに、発掘された基礎とか水道とか、あと横浜最古の洋館が一部だけが残っているんだ。ほかは震災以降か明治でも移築なんだよね」
白井は感嘆を漏らしていたが、それより先に進まない。新たな仕入先が気になるようで、元町そばのディスカウントを折り返し地点とすることにした。
互いに言いたいことを言い合って、感嘆の相槌を返す。軽い気遣いはありながら、気の置けない関係だった。
白井の話題は家庭と、趣味と実益を兼ねた鉄道。僕には小説しかなかったが、深淵に足を踏み入れたから話はとめどなく溢れ出た。
そうやって、みなとみらいの桜を辿ってゴールの野毛に着いたのは、とっぷり日の暮れた頃だった。
「子供の頃は怖くて近づけなかったよね」
「俺、はしご酒って、はじめてです」
白井は野毛もはじめてだったが、僕はSNSを通じて妻が作った仲間たちと、一度だけ探検したことがある。その付き合いも、妻がいなくなったから、なくなった。
年齢というチケットを握りしめ、華美な門を通り抜け、大人のワンダーランドに入場していく。
かつての記憶から店を訪ねてみたものの、僕らの予算に叶わず断念し、空いていて雰囲気の合う店を選んだ。
今日何度目かの乾杯をして、小説の話ばかりする僕に、白井が切り込んできた。
「気になる相手とか、いないんですか?」
「いないことは、ないけど……小説仲間で」
「マッチングアプリとか、あるじゃないですか? ネットの恋愛なんて、今は当たり前ですよ」
それでも妻と同じSNSの恋だから、と僕は踏み出す靴も履けずにいた。そして僕は、薄くビールが張っているジョッキに視線を落とした。
「そろそろ次に行こうか」
「うっす。でも、もう一杯だけいいっすか?」
ふらふらと彷徨った末に白井が目をつけたのは、注文ごとに会計をする立ち飲み屋。店内はサラリーマンが雀のように留まっているので、僕らは通りに身体をはみ出すカウンターに留まった。
ふたりで馬鹿な話をしながら呑んでいると、ラフな格好をした男性が
「お仕事、何されているんですか?」
と、尋ねてきた。
「僕は駅員やってます」
「俺も鉄道で、電気とか信号をやってます」
「へぇ、どちらなんですか?」
「言えないんですよ。鉄道会社って情報漏洩とか、うるさいから。そちらは何を……? 」
「この辺で、いくつか店舗を経営しています」
へぇ! と感嘆する僕たちに、ベロベロの親爺が近づいてきた。変な絡み方ではないが、何を言っているのかわからない。
「おじさん、いつから呑んでるの!? 朝九時から!? 大丈夫なの!?」
眠らない町が消してしまった星の下、僕は誰かに言うわけでもなく呟いた。
「やっべぇ、超楽しい」
僕は、僕を連れ出してくれたすべてに感謝して、グラスを掴んだ。
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