第27話『アクアリウム』

 はじめて迎えた妻の命日、都合よく休みなので、刊行したばかりの本を鞄に入れて、墓参りに行く。

 と、お義父さんと義弟夫婦が香を手向けたところだった。互いにうつむき、会釈だけを交わしてすれ違う。もう、この家とは法事だけの付き合いになるのか、そう感じさせられた。


 あちらの家が活けた花は、ヴェールのように霞草をまとっている。買えなかった僕は申し訳なさと、それぞれの中で生きている妻を見たようで、僕の胸は鬱屈とした灰色と、柔らかく照り返す大理石色に染まっていった。


 僕と位牌の妻は、表紙の景色の中にあった。本の中の道筋を、ふたりで辿る。


 冬の浜辺は寒々しくて透明で、海岸道路を過ぎていくタイヤの音が拍車をかける。ほんの微かに暖められた海風が刺す。

 立ち上がっては打ち寄せられて消える白、この世の果てまで広がっている青い横一線には、うねっているのに人を拒絶している硬さがあった。


 お坊さんは一度も言っていなかったけど、もし、もしもだよ。

 この世に輪廻があったとしたら、君は何に生まれ変わるんだろう。

 五十六億七千万年、それが空の果てではなくて海の底だったとしたら、須藤真澄先生が描いたみたいな『アクアリウム』の世界なのかな。


 生命が尽きたら目の前に広がる海に帰って、神様のもとで待っているんだ。これから産まれる生命があったら、誰がその生命へ宿るのか互いに目配せし合って、話し合って決めるんだ。


 神様はやっぱり、神様であることを否定して「私はおじいちゃんだよ」って言うのかな。目が固まらない幼いうちなら、誰が君なのかがわかるんだ。

 もしもそうだったとしたら、僕の前にもう一度、現れてくれるのかな。僕に気づいたら、私だよってアピールをしてくれるかな。

 位牌からも、お盆になっても君の気配を感じないときが来たとしたら、君は生まれ変わっているんだろうか。


 やり直せるんだとしたら、君には天寿を全うし、幸せなまま眠りについてもらいたい。それが、何であったとしても。


 *  *  *


 年の瀬の忙しない人通り、年明けの浮ついた歓びを、改札窓口からぼんやりと眺めた、いつもどおりの年末年始。いつものように会社に行って、普通に回ってきた休日に、普通に正月を過ごしている実家に帰った。


 型どおりの挨拶をし、取り留めのない近況を報告し、父が録り溜めていたテレビ番組に付き合った。

 居間には、ぽっかり穴が空いていた。十年間、僕のそばにいた妻がいない。


 ひとりになっても料理をしている証拠にと、妻が遺したレシピ本から、さつまいもの甘辛煮を作って持参した。

「弁当に入れているんだよ。お菓子みたいだけど」

「美味しいじゃん」

と、母の顔がほころんだのは、味だけではなく僕が料理を覚えたからか。それとも、ひとりになっても僕が元気にやっていると、わかったからか。

 空いた穴が、少しだけ塞がったような気がした。


「初詣は、これから?」

「うん、次の休みに」

 一昨年までは妻の強い希望に添って、川崎大師にお参りをしていた。やはり盆暮れ正月などなかった車掌の僕に合わせてくれて、回ってきた休みの日に初詣をした。


 久寿餅、それも「恵の本」が僕たちのお気に入りで、帰りに必ず買っていた。

 とろりと甘い黒蜜と香り高いきな粉、酸味が香る久寿餅が恋しかったが、一番少ない二枚入りでも、ひとりになった今では食べ切れない。


 それなのに「そろそろ」と僕が腰を上げると家族は総立ちになり、母が作ったカレイの煮つけ、群馬の食堂兼土産屋から取り寄せた蕎麦、兄からは非常食にとレトルトカレー、丹沢で買ってきた豚の味噌漬と叉焼、従兄弟が餅つき機でついた餅など、ありとあらゆる食材を紙袋に詰め込んで渡した。

 嬉しい誤算だ。組み立てていた献立に、これらを加えて組み直さないと……。


 *  *  *


 初詣、今年から行き先を変えようか。まずは新年の挨拶に、妻が眠る菩提寺に参る。それから峠越えのバスに乗って鎌倉に抜け、隠れ里の稲荷を参る。


 このお稲荷様は、前の会社にいた頃からのお付き合いだ。出世稲荷とは聞いていたが、出世にまるで興味がない僕は、鬱蒼と茂る谷戸の中に咲き乱れる射干シャガの花だけを目当てに訪れていた。

 それから僕が病に伏せて、復帰してから同期との遅れを取り戻そうと、妻と一緒に出世を願った。


 神通力も、会社の制度には敵わない。職階に変化はなかったが、同期と並んで班での地位が上がっていった。

 家でのんびりと過ごしているとき、お稲荷様が頭を過ぎり身震いした。そして僕は切羽詰まった声で

「次の休み、鎌倉のお稲荷様に行ってくる」

 そう告げられた妻は、狐につままれたような顔をしていた。


 そんな、とても強いお稲荷様だ。そのあとも何度か呼ばれたような気がして、たびたび訪れている。

 混雑してはいないものの、参拝客が途切れることはない。それだけ信仰されている現れである。

 階段にズラリと並んだ鳥居をくぐり、拝殿の前に立つ。感染症予防策で手水ちょうずも鈴の緒も中止なので、最低限の二礼二拍手一礼のみで祈る。


 僕の本が売れますように……。


 ……出世とは関係ない。それでも、売れなければ文筆舎に申し訳ない、絶版となったら家の中が自著の山では困るのだ。そしてそれが人の手に届けば、本に込めた妻が生きながらえる。

 神様、どうかどうか、お願いします。

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