第26話『日常の椅子―菅原克己の風景』
救急隊が到着し、僕はようやく諦められると安堵した。さあ、早く絶望させてくれ。
隊員は妻のバイタルを取り、細心の注意を払って選んだ言葉を僕に告げた。
「私たちに出来ることは、ありません。こちらから警察に連絡します」
ようやく妻を眠らせられる、そう思うと全身から力が抜けて、うなだれた視線は横たわる妻へと落とされた。
ああ、そうだ、連絡しなきゃ、妻が死んだって。
僕のそばにある真実に、どちらの親も耳を疑い、今から行くと車を出した。それから僕は車掌の師匠に、弟子に、会社に絶望を振り撒いた。
しばらくして、警察が来た。妻の状況を確認し、僕に状況の聞き取りをはじめる。気をしっかり持てと自分で自分に喝を入れると、不自然なくらいテンションが上がり、警官の眉が怪訝に歪んだ。
これでは、まるで犯人だ。
いや、妻を殺したのは僕かも知れない。
僕の疾病休職で作った借金、妻の症状が悪化して膨れた借金、それが僕たちを圧迫した。苦しむ妻を救いたい、そんなはじめの願いはとうに消えた。
借金を返すため、僕は休日出勤を増やしていた。早朝からの日勤と、深夜までの日勤を一日のうちにやった。家にいないことが増え、帰宅しても食事と睡眠に費やされ、家事や家計の一切を妻に任せた。
しかし努力虚しく、年収と一緒に控除も増えて、手取りはほとんど変わらなかった。上がった控除のために時間外労働を減らせない、負のスパイラルに陥っていた。
一方、准看護師ではいい仕事が見つからなかった妻は、寂しさを紛らわせるためソーシャルゲームをはじめ、顔の見えない仲間と虚構を冒険する日々を送っていた。
妻は、僕のカードで課金していた。そして借入金は、僕の一年間の手取りにまで膨れ上がった。
離婚を覚悟した妻に、僕は言い放った。
「離婚はしない。僕の信用を返せ!!」
言葉で妻を拘束し、死に至らしめた僕に、言葉が襲いかかった。
──君は意識過剰で社会と人生のことを知らない
と言ったのは まぎれもない このぼくだ
──君は意識過剰で社会と人生のことを知らない
といま言われているのは まぎれもない このぼくだ
菅原克己「聖バレンタインの夕べ」だ、山川直人さんの『日常の椅子―菅原克己の風景』で読んだ。
気持ちに余裕がなかった、そんなものは言い訳に過ぎない。自己破産出来るほどの金額ではなかったが、何かしら手立てがあったはずだ。それを僕は、つまらない世間体のために、妻を──。
鑑識が差し出したのは、B5版くらいのジッパーバッグだ。ひとつは空っぽ、もうひとつは極彩色の錠剤がぎっしり詰め込まれている。
「これと同じものを飲んだようです。ここにあったのですが、気づきませんでしたか?」
「もう、夢中だったので……」
オーバードーズか、そう思った僕の胸にページが覆い被さっていく。
彼は部屋にひっこんで
ウィスキーをちょっと飲み
それから薬を飲む
まったくこのほか何もない
ふたつあるのは、僕も飲めという意味だろうか。薬を見つめる僕から悟って、警察官がやや慌て気味に取り繕った。
「もし足りなければ、それも飲むつもりだったのでしょう。それと、手紙が見つかりました。こちらは封がしてありましたが、捜査のため開封していますので、ご了承ください。状況からして、自殺でほぼ間違いないでしょう」
僕と、それぞれの両親に宛てた手紙は、作業机で書いたらしい。それが証拠に謝罪の言葉で埋め尽くされた僕宛ての手紙は途中で力を失い、ボールペンの線が作業机の上で朦朧とのたうち回っていた。
彼はぼくの言葉を
そのくせ なによりも静かだった
そのとき、聞き慣れた電子音が外から聞こえた。父の車だ、警察官に妻を託して迎えに下りる。
「二階にいるよ」
僕は、それだけを家族に告げた。しばらくして、義弟の車でお義父さんも駆けつけてきた。同じ台詞を告げるのが、僕の今の精一杯だった。
ハンカチで頬を押さえている母に、固くうつむくお義父さんに
「手紙、捜査の関係で開封してあるけど」
と、警官の言葉を写して妻が書いた手紙を渡した。
僕は、僕の言葉を失った。思考は、今まで触れてきた本の場面が奪っていった。
死というものは いったい何なのか
生きるということは いったい何なのか
もしも死んだ青年が 詩を書いていたなら
その自殺は何なのか
セメント色の袋に納められ、警察官によって運び出されて、車の荷台に乗せられた。同意書を書いたから、警察署に行って司法解剖をするらしい。
妻と再び会えるのは、それが終わってからだ。
その自殺は何なのか
退廃なのか 敗北なのか
それとも ひょっとすると 闘いなのか
父の車で警察署に行き、ことが済むのをひたすら待った。陽が傾いた頃に呼び出され、片隅にぽつんと建った小屋へと連れられた。
傷を見せないためだけに、事務的なシーツを被せられた妻の手を握った。
はじめて会った日、私はよく転ぶからと海岸線で握った手。
それから出かけるたびに、いつも握っていた手。
踏切に踏み出そうとし、引き止めた手。
離すまいと、握っていた手。
その固く冷たい感触に、僕はようやく涙した。
声を上げて泣き、手を掴んだまま泣き崩れた。
社会とは 城のようなものか
人生とは
その裂け目のところで ある日世界が
ふいに静かになる
母親は魚を焼き
そして彼は
ベッドの下に
静かに手を垂らす
時間がきて、妻と別れて遅い食事を家族と摂り、ひとりになった家に帰った。
あ……猫のご飯、あげてない。
二階に上がると猫たちは、おねだりせずに部屋をうろうろと歩き回った。途方に暮れて、僕に縋った彼らを撫でた。
「ママはね、もういないんだよ」
お腹が空いているはずなのに、猫たちはずっと妻を探し続けた。抱かせてくれる子の脇を抱えて、僕はギュッと身を寄せた。
この罰を受けるのは、僕だけでいいのに、と。
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