第25話『夕凪の街 桜の国』

 妻の一周忌法要を終え「送るよ」と父が運転した車で母は「こっちに帰ったら?」と、僕を誘った。流れる景色を映したまま、僕は苦笑して断った。

「猫が壁紙を引っ掻いたから、潰すまで住むよ」


 本音を言えば、実家ではなく菩提寺の近くに引っ越したかった。静かで、区役所も近く、いつでも墓参りが出来る。道路事情の悪さが玉にきずだが、そもそも僕は免許を持っていない。

 だが、猫がつけた傷や処分出来ていない遺品の他にも、前の会社でうつを患ってから通っている精神科が遠くなる難点があり、引っ越しは諦めていた。


 横浜駅前で車を降りて「また正月に」と別れて、電車に乗った。喪服に、位牌と遺影を納めた紙袋、数珠と袱紗ふくさを入れたセカンドバッグを下げた僕は、周りから目を背けられている、そんな気がした。

 年の瀬、新年を迎える準備をする中、目にしたい風貌ではないだろう。


 真っ直ぐ帰宅し、位牌を仏壇に納めて妻を労う。二階に上がり、甘えたがりの猫をあしらい、部屋着に着替えて喪服を仕舞う。

「おやつは朝、食べたでしょ?」

 猫には、朝も昼も関係ない。今、食べたいのだと訴えている。食いしん坊の長男が立ち上がり、美味しいもの好きの長女がすり寄って、僕は負けた。


「はいはい、おやつね」

 作りつけの戸棚から本日二回目のおやつを出す。早く出せ、早く出せとおねだりする長男を諌めて、皿におやつを三等分。長男はガツガツ食らいつき、長女はあむあむと食べている。あっという間に食べ切ってしまった長男は、長女の皿に襲いかかる。


「こら、お姉ちゃんのを取らないの」

 頭をグイッと押された長男は、末っ子の皿に狙いを変えた。当の末っ子はというと、布団の上でまどろんでいる。樽みたいに太っているのに、末っ子が食べている場面を、僕はほとんど見たことがない。


 さて、今日の残りをどう過ごそうか。一周忌しか頭になかったから、今晩の献立さえ考えていない。

 疲れたから簡単に、と食材を確かめるため一階へ降りようとした僕は、隣の十畳間で足を止めた。


 自分の家なのに、通るたび目を背けている場所がある。この部屋の窓際に据えられた、手芸を趣味としていた妻の作業机が、それだった。


 昨年の十二月二十八日、朝六時。

 引っ越してすぐ働いた病院があまりに酷く、妻は憤慨したあまり退職した。それ以来、金銭的不安を原因として不眠と拒食に苛まれていた。

 妻に寄り添うために会社を休みたかった。しかし転職してから日が浅く、有給休暇を取得出来るのは来月からだ。


 憔悴した妻を起こさないよう準備をしたが、その朝だけは妻が目を覚ましていた。

「行ってくるよ」

「うん」

 短い言葉を交わして、妻が作ってくれたお弁当を下げて会社に向かう。長年離れていたせいで変化に苦労していたが、駅の業務を掴めてきていた。助役や主任、管理職からも期待され次期主任との呼び声が高まってきた頃だった。


 休憩のたび、妻にメッセージを送る。返信はなかったが既読がついて、とりあえず生きているのだと最低限の安堵をした。


 翌朝、後任者に改札窓口の引き継ぎをして事務所に戻り、与太話を交えた引き継ぎを済ませ、いつもより遅めに会社を出た。

 電車を待っている間、妻宛てに

[異常なく終了しました、今から帰ります。]

と、いつものとおりにメッセージを送る。


 冬の寒さも清々しく感じられる、気持ちいい青空が広がっていた。出退勤時、道すがらの自動販売機で缶コーヒーを買うのが日課だったが、今日だけは缶入り甘酒の気分で、欲求のままボタンを押した。

 ホッとする甘さが口に広がる。妻は酒粕の匂いが嫌いだから、僕だけの楽しみだった。

 それがいけなかったのかも知れないと、無意味な後悔をこの直後にする。


「ただいま」

と帰宅して、煙草を一本吸ってから妻が休んでいる二階に上がると、こうの史代先生の『夕凪の街 桜の国』で見た一場面が、僕の眼下に飛び込んだ。

 現実は、そのひとコマから動かなかった。


 妻は、作業机の前で突っ伏していた。


 妻の名前を呼んでも、返事はなかった。


 肩を揺らすと、触れた手に冬の寒さが伝わった。


 血の気が引いた。床についた指先の色を目にした僕は、浮かんだ一字を掻き消した。仰向けにして、潰れたままの鼻から垂れた血溜まりに、再び一字が浮かんで必死に掻き消し、救急に電話をかけた。


『119番、消防署です。火事ですか、救急ですか』

「妻の意識がないんです」

『どんな状態ですか?』

「鼻血を流して、指先が紫色で」


 救急隊は、息を呑んだ。わかっている、わかっているが、諦めなくないじゃないか。お願いだから、僕の頭に浮かんだ一字を、お願いだから言葉にさせないでくれ。


『携帯電話ですか?』

「携帯電話です」

『スピーカーにしてください』

「スピーカーにしました」

『心臓マッサージをします。私の言うとおりにしてください』


 僕は、妻の胸を何度も押した。冷たくなった妻の身体は、一定のリズムで揺さぶられるだけ。

 一心不乱に胸を押している僕に、スマートフォンから固くて熱い、落ち着いた声が届けられる。


『救急車が向かっています。もう少し頑張ってください』

 全力を込めて、祈りを込めて、奇跡を信じて全身全霊を妻に注いだ。僕の想いが堰を切り、かすれた叫び声となった。

「生き返ってくれえええええええええええええええ!!」

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