第17話『蜘蛛の糸』

 有効求人倍率が0.5を下回った就職氷河期、僕は大手鉄道会社の最終面接にまで至りながら、短期大学を就職出来ずに卒業した。看板サークルの部長だった僕の空振りに、学校の就職担当は驚きを隠せなかった。

 そこで手を差し伸べたのが、この学校で出会ってから転職するまで付き合い続けた友人だった。


 彼は、在学中に続けていた駅アルバイトからのし上がり、私鉄のグループ会社に就職した。経費削減のために作られた駅業務を行う会社で、役員以外は契約社員でアルバイト並みの時給だった。それでも厳しい時代だったので、そんな待遇でもお釈迦様が垂らす蜘蛛の糸に思えてならなかった。


 就職を決めた彼はお釈迦様となり、僕に蜘蛛の糸を垂らしてくれた。

 そうは言っても「うちの会社の駅アルバイト募集があるよ」と教えてくれたまで。コネもない一介の契約社員に出来るのは、そこまで。だが、その時代にはそれだけで十分だった。


 二年間の駅アルバイトを経て契約社員となった僕と入れ替わるように、この会社を紹介した彼は車掌になった。この当時、運転士になってはじめて私鉄本体の正社員になれる仕組みで、車掌を目指すのが当然の流れだった。

 一方の僕は駅の仕事が上手くいかず、車掌に逃げ場を求めた。


 車掌も苦労の連続だった。電車は幼い頃から好きだったが、商売道具としての電車は違う。ダイヤや放送や機器取り扱い、運転士との関係に苦労して、一年間毎日怒られ続けた。

 そんな僕を見捨てずに世話してくれたのが、車掌の師匠だった。師匠もまた、弟子は一生の弟子だと蜘蛛の糸を垂らしてくれた。


 僕は、蜘蛛の糸を掴んで必死に登った。

 師匠の仕事を継ぐのだと、運転士試験の最終面接で頭を下げて断った。すると当時の班長は、車掌班の会計幹事を僕に命じた。下戸に務まるのかと不安だらけの僕の前に、妻になる人が現れて病院の幹事を務めた経験で支えてくれた。


 そんな折、僕はうつに襲われた。

 一年一ヶ月半の休職で、同期より二年分の遅れを取った。同期と並ぼうにも、書類上の失われた時間は戻らない。ならば会社に奪われた十ヶ月半を取り返そうと、僕は必死にもがいた。


 経験年数という社内ルールを飛び越えて、指導員に任命された。押しが弱い僕に周りは懐疑的だったが、独り立ちした弟子を見ると指導力があると評価して、以降ふたりの見習いを指導した。

 僕の力ではない、これは弟子が頑張った成果だ。僕はアシストしたまで、むしろ僕にとっては勉強になった。


 ときを同じくして、委員会や組合幹事に白羽の矢が立ちそうになってはいたが、疾病休職明けではとどこも二の足を踏んでいた。

 そんな僕を蜘蛛の糸で絡め取ったのは、あってもなくてもいいような委員会だった。


 かえって僕には好機だった。高校時代、存在だけで後ろ指を差されるクラブに所属して、地位向上のために邁進した。休刊していた機関誌の復活、文化祭展示物の拡充、県総合文化祭での研究発表、思いつくことは何でもやった。

 要は、それと同じことをすればいいのだろう? やってやる、いらない委員会とは言わせない。


「目視でも車掌用モニターでも、確認出来ないドアがあります。見えないドアで事故が起きたら、誰が責任を取るんですか?」

「それは、会社が……」

「事故を未然に防止するのが、鉄道会社が取るべき責任ではないんですか!?」


 どの駅のどのドアが、いつ見えないのか。委員長を引き継いだ翌年から、車掌全員を対象に一年間に及ぶ長期アンケートを実施した。データをまとめて分析し、助役を介して本社に提出すると「助かる」と返事をもらったものの、モニターの改善に繋がらず、僕たち車掌は見えないドアを見えないまま閉め続けていた。


「あのアンケート、何だったんですか?」

 何もしない会社への不満は、委員長の僕にぶつけられた。たかが車掌ひとりでは会社を動かせないのだと、僕自身も落胆しつつ責任転嫁し取り繕うのが精一杯だった。

「会社に把握させたんだ。万が一のことがあれば、会社は言い逃れ出来ないよ」


 大山鳴動させながら鼠の一匹も得られずに、僕の任期は終了した。引き継ぎのゴールテープはいとも簡単に切られてしまい、僕は委員会での仕事も立場も失った。


 指導員は後輩が務める番となり、僕には車掌班をまとめる仕事が回ってきた。

 トップダウンのワンチームを良しとする旧態依然の上司たちと、個を尊重して強制参加に難色を示す若手との間に、僕は挟まれていた。

 僕を繋ぎ止めているのは、蜘蛛の糸ではなく凧の糸に変わっていた。


 休暇の曜日を均等化する都合により、僕らの班が連休となる機会が回ってきた。今までは班で旅行に行っていたが、自分の時間を大切にする時代を鑑みて、給与天引きの積立金を使い高級ランチに行こうと提案した。もちろん、強制参加などではない。

 半数が参加すると表明したが、ひとりまたひとりと離脱して、残ったのは僕を含めた四名だった。


 僕は、この職場に不要な人間になったと思えた。駅に異動するまで、あと十年。この職場での目標を失い、僕のモチベーションは地に落ちた。

 そんな腐った状態で仕事をしたから、お客様から苦情をもらった。しかし上司は、僕が口を開くより遥かに早く

「あいつが、そんなことをするはずがない」

と……言い出せない状況に追い込まれた。


 わかっていた、隠し通せるはずがない、罪を償い罰を与えられたほうが遥かに楽だと、わかっていたが言えなかった。

 隠蔽が発覚し、すべての信頼を失った僕は、乗務中に声を発せなくなっていた。


 適応障害だった。

 車掌のままでは症状は改善しない、もう職場には戻れない、戻りたくないと出せない声を絞り出した僕に、上司は異動させないと断言した。

 生きるためには、会社を辞めるしかなかった。


 都合の悪い真実を隠した僕には、糸を切るほかの選択肢は残されなかった。

 それでも僕は、妻がこの世を去ったという真実を隠そうとしている。僕の糸が再び切れたら、どこへ飛んでいってしまうのだろうか。

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