第16話『ツレがうつになりまして。』
困ったことになってしまった。
課題から目を背け、特に意見をしないまま、今に至ってしまったツケだ。すべては僕のせいだろう。
文筆舎から、本の表紙と帯が送られてきた。裏側には簡単なあらすじが踊っており、その下には編集とのやり取りで決まったキャッチコピーが書かれていた。
この本を読んで欲しいのは、うつ病の当事者だけではない。苦しむ人を支える人にも、読んでもらいたいのだと、そういう想いを込めたキャッチコピーだった。
それは、僕自身の体験に由来していた。
妻と暮らして結婚し、苦しむ妻を支えている間、妻とはつながっていないSNSを日記代わりにしていた。
そして僕も神経症を患って、車掌に復帰してからしばらくした東日本大震災後、異常なほどの早起きが続いて情緒が乱れ、妻と一緒に精神科を受診してうつ状態と診断された。
「今まで頑張っていたんだから、夏休みだと思ったら?」
「早ければ三ヶ月で治るみたいだし、休ませてもらおうかな」
「本にすれば?」
「『ふたりでうつになりまして。』」
『ツレがうつになりまして。』の二匹目のドジョウを狙った冗談を言い、僕と妻は笑い合った。しかしその軽くて甘い考えは、一ヶ月後に一蹴された。
思考は滞り、計算が出来なくなり、路線図を見ているだけで目を回した。鉛のような脱力感、自分を責める無力感、襲いかかる希死念慮、地獄はこの世にあるのだと思い知った。
SNSでの日記も、日に日に言葉が少なくなっていった。言いたいことがないのではない、言いたいことがまとまらないのだ。口を開けば「死にたい」と言ってしまいそうで、言葉を封じた。
そんなときに、大好きだった読書など出来るはずがない。文章は一文字たりとも入ってこない、絵を見ても脳に届いている感覚がない、ただただ生きているだけの存在で、生きる価値などないと思った。
その状態を、身を持って知っているから、うつ病に苦しむ人に読んで欲しいとは言えなかった。この本を届けたいのは、苦しむ人に寄り添って苦しんでいる人だった。
だから、帯の裏側はいいとしよう。
しかし平積みになれば、まず目に飛び込む、帯の表側である。
『頑張るのは、少しでいいんだぞ』
本文から引用された一節は、うつ状態からの復帰を目指して見習い乗務を行った、最後の日。見極めで思ったとおりに身体が動かず、腑に落ちない結果となり自暴自棄になりかけた僕に、指導員を務めた班長がかけた言葉だった。
それかぁ……と、僕は苦虫を噛み潰した。
見習い中、僕に車掌のイロハを教えてくれた本当の指導員にも教わっていた。師匠は一生の師匠、という言葉が鉄道では語られる。本音を言えば、班長ではなく師匠の言葉を帯にしてもらいたかった。
記憶と記録の限り記した精神科医の認知療法も、うつ病に苦しむ人々や、彼らを支える人々の参考になるはずだ。
だが、残念ながら班長の言葉のほうが相応しい。その理由は、そのすぐ下に書いてある。
『──実話から生まれた、うつ病加療小説。』
なるほど、そういう扱いか。やはり細川貂々先生の『ツレがうつになりまして。』と同様のカテゴリに入るわけだ。
それが不服というわけではない、狙いのひとつであるのは間違いではないからだ。
しかし、それだけの小説か。僕が伝えたいのは、うつ病を治療する過程だけなのか。
そうではない。うつ病の症状を、その苦しさを、支える苦悩を、そもそも何が苦しみの根源なのか、そして妻が生きた証を……。
僕は、妻が生命を絶ったことを隠ししたまま出版するのだ。僕たち夫婦を知らずに読んだ人たちは、妻が生きていると思うだろう。
当然だ。僕が車掌に復帰して指導員を拝命した、そのあとに続く物語は綴られていないのだから。
当然だ。物語の小瓶に閉じ込めて、永遠の生命を妻に与えたのだから。
真実を知れば、裏切られた気になるだろう。知らなければよかったと、落胆するに違いない。うつ病の果ては、絶望しかないのだと思うだろう。
すべてを知ることが幸せとは限らない。これは、隠しておくべき事実なのだ。妻がこの世を去ったと内藤に伝えながら、反映されなかったのはそういう判断が下されたのだ。
真実と、真実をもとにした虚構の狭間で揺れる僕は、帯が定めた着地点に飛び降りるか否か躊躇っていた。
そこへ、電話がかかってきた。文筆舎の須田だ、スピーカー越しの声からは焦りが感じられた。
『表紙と帯、届きましたか?』
「はい。今、見ているところです」
『申し訳ないんですがスケジュールが厳しいので、一週間以内に直すところを教えてください』
「あの……名前がペンネームではなく本名になっているんですが……」
僕に言えたのは、これだけだった。
了解したものの、答えなど一週間で出せるはずがない。悠久の時間があろうとも、自問自答を繰り返し葛藤を続ける課題だった。
僕は、僕と妻の時間を商品にしてしまったんだ。決して明るい本ではないが、手に取った読者を落胆させるのは許されない。誰のために本を出す、まずは読者を考えろ、苦しみの日々に一筋の光明を差すんじゃないのか。
一週間考えた末、僕は帯の内容に意見しないことにした。
しかしいずれ、真実を語らなければならないとも胸に秘めた。たとえ不都合であったとしても、真実が最も尊いのだと。
そう思い至ったのは、前の会社での苦い経験からだった。
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