第15話『甘々と稲妻』

 仕事から帰って食事をし、足りない睡眠を補っていた昼下がり。漂う虚無から引き戻したのは、足元から僕を見つめる三人の子供だった。

 はじめて目にする子供たちだが、不思議なことにそれが誰なのかは、ひと目でわかった。


 八歳くらいの女の子は、うちの長女だ。吊り目がキツい印象だが綺麗な顔立ちをしており、それに見合った可愛らしい服をまとっている。

 六歳くらいの男の子は、うちの長男。幼いながらしっかりとした体躯をしており、甘えたそうな瞳の奥に我慢強さと優しさが覗く。

 五歳くらいの男の子は、うちの末っ子。甘えん坊のお坊ちゃんに見えて、悪戯好きのやんちゃ坊主。ウズウズとする態度から、その実態が垣間見える。


 僕は、目を見開いて飛び起きた。うちの猫たちが人間の子供になってしまった。子供がいない僕たち夫婦にとっては、確かに子供に等しい存在だった。

 しかし、妻が先立ちひとりになってしまった今、この子たち三人をどう世話していけばいいのだろうか。


 そこで僕は、目を覚ました。夢だった、猫たちは猫のままだった。どろりとした血を身体に巡らせた僕は、ホッとしたのと淋しさとの合間にあった。

『ごはん』は、まだある。今日の『おやつ』はもうあげた。二度目の幸せをおねだりする長男を撫でてあしらい、一階ダイニングへと降りて水分を摂る。


 二度目のお盆以来、どうにも頭が働かず、今夜の献立が思いつかない。食材がないわけではないが、思い浮かんだ料理はピンとこない。

 明日も仕事、冷凍ご飯のストックがない。今夜の分と、お弁当の分が必要だから、とりあえずお米を炊かないと──。


「そうだ、ご飯を炊こう」


 夕暮れの頃合いを待ち米を研いで、ザルに上げて三十分。いよいよ炊くぞと取り出したのは、戸棚の土鍋と、本棚の雨隠ギド先生の『甘々と稲妻』。

 この第一話が土鍋ご飯。話の最後には、おまけのようにレシピも載っている。


 本に描かれたとおりに水を注ぎ、土鍋の蓋の穴がボスボスボスッと吹くまで強火にかける。

「あああああ、ヤバいヤバいヤバいヤバい」

 火を絞り、指定された時間までふつふつと炊く。はじめチョロチョロの、チョロチョロだ。


『甘々と稲妻』は、妻が欲しいと言った本だ。携帯電話の手続きをする待ち時間、一角にあった本棚のそれを手にしたのがきっかけだった。

 つむぎちゃんの今どきらしい喋り方に驚きながらも、料理を通して成長する父と娘をガンバレ! と応援し、一緒に料理をする小鳥ちゃんの感情や想いにドキドキさせられ、僕と妻は待ち時間が気にならないほど夢中になって読み漁った。


 妻が生きていた頃は、レシピを使わず物語を楽しんでいた。はじめの頃は幼いつむぎちゃんのため、子供向けのメニューばかり。話が進むに連れ、料理の腕が上達するので難易度が上がる。

 今の僕は、第一話の土鍋ご飯が見合ったレベル。そこから脱却出来るのは、一体いつになるだろう。


 僕が料理をはじめたのは、大量の食材を遺して妻が逝ってしまったからだ。逃げられない状況に追い詰められれば、ヘタクソでも何とかなる。


 そこが『甘々と稲妻』のお父さん、公平さんとの大きな違いだ。

 公平さんは、娘のためを思って小鳥ちゃんの母が営む店に走って料理をはじめた。

 僕は、僕だけのために料理をはじめた。お盆などときどき妻に披露はしたが、胃袋に収めているのは僕だけだ。


『ピピピピッピピピピッピピピピピピピピ……』


 キッチンタイマーが僕を現実に引き戻した。弱火から一気に強火にし、中パッパの三十秒。時計の針が真逆を向いたら火を落とし、土鍋の予熱で十分間蒸らす。

 この間に、ご飯のお供を用意する。

 買い置きしていた納豆と、冷凍しておいた小松菜を茹でておひたし、梅干はお弁当に入れるから保留にして、代わりにキムチを盛りつける。ひとり分の味噌汁は手間だから、レトルトの封を切る。

 今日の主役は、土鍋ご飯だ。


 蒸らしが終わり、蓋を開けると甘い匂いが視界を覆った。眼鏡の曇りが晴れていくと、お米のひと粒ひと粒が誇らしげに立ち上がり、雪のような白銀色の輝きを放っていた。

 真ん中寄りのご飯をしゃもじでよそい、お弁当箱に詰めて梅干を埋める。おかずを詰めるのは、ご飯のあとで。


「いただきます」

 その顔が、ほころんでしまう。ご飯の基本はご飯なのだ。『甘々と稲妻』第一話に相応しいメニューではないか。


 土鍋の底をしゃもじですくうと、パリパリとしたおこげが剥がれた。これこれ、これですよ。

 ほどよく硬く、ほどよく柔らかな、何物にも代え難いおこげを噛み締め、土鍋で炊いた甲斐があったと自画自賛した。


 妻が生きているとき、土鍋ご飯は何回かやった。炊飯器が故障して、妻がやむなく土鍋で炊いた。

 その味に感激して、炊飯器は買わなくてもいいのでは、とまで言ったのは僕。手間を考えろ、料理をしないくせに、と妻は冷ややかな視線を送った。

 新しい炊飯器の味に、また感激したので土鍋ご飯は炊かなくなった。


 僕は今、僕だけのために手間暇をかけている。

 ひとりになって、ひとりに慣れて、ひとりぼっちになろうとしている僕なんかが、誰かのために料理を作る日は訪れるのか。

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