第12話『日本の私鉄 カラーブックス』
僕たちの結婚記念日は、七月二十二日。
何故そうしたかといえば、妻の誕生日も僕たちが一緒に海へ行ったのも、一緒に暮らしはじめたのも二十二日。そして七月のこの日は、血が繋がらない妻を家族として迎えた、おばあちゃんの誕生日。
だからこの日と、妻が決めた。
そして当日、僕は連日の車掌乗務で疲弊した末、寝坊した。籍を入れた日、僕は一日ボーッとして、妻はずっと怒っていたのが、僕たちの苦い思い出となっている。両親の猛プッシュで挙げた結婚式当日も、僕は風邪を引いてしまった。高砂席でくしゃみをし、笑いを取ったのを思い返すと、苦笑せずにはいられない。
どうも、肝心なときにダメになる。
そんな申し訳ない気持ちを抱いた僕は、前の会社の電車に乗って、墓前で結婚記念日をお祝いした。霞草を混ぜた仏花を飾り、線香に火を点けて数珠をかけた両手を合わせる。
お盆を過ぎた今だけど、五十億七千万年の向こうから妻はついて来てくれるだろうか。何故ならもう一箇所、行きたい場所があるからだ。
駅に戻り、雑踏にコソコソと身を隠す。プラットホーム中央の階段裏、乗務員の目につかない場所で電車を待った。車掌のアナウンスを耳にして、知らない車掌だと安堵していた。
何故こうしているのかといえば、退職者を犯罪者同様に見なす社風もあるが、共同出版する本の表紙絵がメールで届いた、というのもあった。
託したラフなイメージは、作品に合う緻密な絵を描くイラストレーターさんにお願いした。ある程度は予想出来ていたことだったが、車体から機器までハッキリ描かれた表紙絵が出来上がっていた。
興奮した須田からの電話に、僕は狼狽するばかりだった。
『すっごくいい表紙絵ですよね!? いつもは表紙が出来上がったら郵送するんですが、すぐ知らせたくなってメールしちゃいました! イラストレーターさん、学生時代に沿線に暮らしていて、乗っていたそうなんですよ!?』
本当に、よく描けている。素人ならば見逃すような台車、床下機器までしっかり描かれている。これでは『日本の私鉄 カラーブックス』ではないか。
しかし、イメージした以上の絵だ。ダメ出しなどは、とても出来ない。電車が好きな人ならば、とりあえず手に取るだろう。あの会社の話か、と。
会社名を晒さぬようにと書いた努力は、圧倒的な表紙絵で水泡に帰した。
書店に並んだあの表紙を見た人々は、どう思うのだろう。本を開けば僕と妻がうつ病と、社会や会社に苦しめられた経緯が記されている。救われた話もあれば、酷い目に遭わされた話もある。物語の最後には、ほんのわずかな光明が差してはいるが、概ねつらく苦しい話ばかりが延々と続く。
この会社の乗務員なら、本を開けば僕が書いたとひと目でわかる。むしろペンネームはほとんど本名だから、表紙を見れば僕の本だとわかってしまう。
会社のみんなは、どう思うのかな……。
車内放送を聞きながら、高速で飛び去る街並みをぼんやりと眺めて北へと向かった。
前の会社の電車からJR線に乗り換えて、東京を通り抜けて浦和で降りる。そこからはバスに乗り、終点ひとつ手前で降車ボタンを押して鳴らした。
まずは近くのスーパーに向かい、仏花とお煎餅を買い求める。店の裏側、畦道の名残がある住宅街の路地を縫い、包み隠すような生け垣に囲われた一角へ、重々しく鳴く門を押し開けて入っていった。
そこは墓地だ、妻のおばあちゃんが眠っている。
水を汲んだ手桶に柄杓を沈ませて、見知った一角の前に立つ。墓石を水で洗い流して仏花を生けて、おばあちゃんが好きだったお煎餅を供える。仏花の包みを丸めて火を点け、それを移した線香をそっと線香入れに寝かしつけた。
立ち上る煙を浴びて、数珠をかけた手を合わせ、瞼を閉じた。
おばあちゃんの家は、このすぐ近くにある。十年ちょっと妻と暮らして、訪れたのは何回だろう。
一回目は、婚約したご挨拶。そこで僕は、おばあちゃんの味を口にした。
二回目は、些細なことをきっかけとした夫婦喧嘩で、妻が家を出たとき。すぐに追いかけ無言のまま辿り着いたのが、おばあちゃんの家だった。おばあちゃんを巻き込まないよう、ふたりで仮面を被って一泊し、何をするでもなく仲直りした。
それから何度かお邪魔して、浦和駅に湘南新宿ラインのホームが出来て、行きやすくなるねと言っていた年、おばあちゃんが亡くなった。
煙が目に沁みたわけでもなく、詰まった胸から涙がこみ上げ、うつむく僕の眼鏡に雫を溜めた。
僕は震える膝をつき、ごめんなさい、ごめんなさい、と墓石に縋りついて何度も何度も、声が枯れて出せなくなるまで、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も謝った。
妻の遺書は、僕への謝罪で埋め尽くされていた。
僕はその何倍も、ごめんなさい、ごめんなさい、とかすれた声を絞り出し、ごめんなさい、ごめんなさい、と溺れるほど妻に、ごめんなさい、ごめんなさい、とおばあちゃんに謝った。
それでも、僕の罪を償うには、とてもじゃないが足りなかった。
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