第11話『横濱』

 鉄道従事員に、盆暮れ正月などはない。送り火も迎え火も、その当日に出来るだけマシだと思わなければならなかった。

 が、あまりに短い。迎え火をして、お盆を休みとして過ごし、送り火をして仕事に戻るのなら、妻とゆっくり過ごせるのだが、仕事は変わらずにある。


 そういうわけで、迎え火の日にうどんを食べて、泊まり明けの十五日はぐったり過ごし、その翌日は妻の大好物であるフライドポテトを一緒に食べて、また泊まり明けであっという間に送り火の十八日を迎えてしまった。

 せっかく帰ってきてくれたのに、もう弥勒の浄土へ帰るのか。菩提寺の住職が説法していた五十六億七千万年、いくら何でも遠すぎる。世界一の遠距離恋愛ではないか。

 夕暮れまでの短い時間を、如何に過ごすか。


 ……まずは一息、コーヒーを飲もう。


 中学生の頃だろうか、コーヒーの味を覚えた僕はそれを燃料にしてしまった。二十歳になり、駅アルバイトで煙草を覚え、それから僕は煙草でコーヒーを沸かす蒸気機関で稼働している。

 ただ、胃によくないから牛乳で割るよう妻に厳命されていたから、ペットボトルのブラックコーヒーをコップの八分目まで注いで牛乳を──。


 少ない、買わなきゃ、妻と過ごす時間が……。


 そうだ! 一緒にもやしを買おう。


 コーヒーを煽り煙草をふかして、妻の自転車の鍵を取る。目指すはドラッグストア、牛乳ももやしもそこが底値だ。

 医薬品や日用品には目もくれず食品売場へと邁進し、もやしと牛乳、ついでに風呂上がりに飲む炭酸飲料、怠惰を貪るお菓子を買い物カゴに収める。

 あ、卵も安い、六個入りを買っておこう。


 もやしとお菓子をクッションにして、エコバッグを敷いた前カゴに仕舞う。

 安全の確保は、輸送の生命である。

 運転の厳正は、安全の基礎である。

 卵の保護は、食生活の要件である。

 と、鉄道従事員なら誰もが知る運転安全規範綱領を文字って、注意深く卵を持ち帰る。


 割れ……ていない! ひとつだけ浅くヒビ割れているけど、薄皮がガードしているからセーフ。今晩さっそく使えばいい、薄焼きにしてオムライスでも作ろう。


 では、さっそく妻に捧げるお昼ごはんを作ろう。

 冷凍しておいた豚肉五十グラムを解凍し、小鍋に規定の水を入れ、フライパンにサラダ油を注いで、どちらも火にかける。

 半袋のもやしを水でサッと流し、五センチほどに切って冷凍したニラを出し、小鉢に水溶き片栗粉を作る。油がフライパンに馴染んだ頃に肉を炒め、頃合いを見てもやしとニラも炒める。


 小鍋が沸いたら、インスタントの醤油ラーメンの麺を茹で、一分ほど経ったら粉末スープも入れてしまう。焦げないようにフライパンの火を弱め、また一分経ったらお玉に取ったラーメンスープをフライパンに注ぎ入れ、水溶き片栗粉も入れて混ぜる。

 麺茹で三分、規定の時間。どんぶりに麺を入れ、フライパンの肉ニラもやしあんかけを載せる。


 出来た! 横浜のソウルフード、サンマー麺!

 どんぶりと箸をテーブルに並べ、妻の位牌を連れてくる。どうだ! 大好きだったサンマー麺、作れるようになったんだよ?


「いただきます」


 あんかけからもやしとニラ、麺を引き上げ一気に啜る。覆い被さるあんが保った熱量が身体を中から熱くする。シャキッシャキッともやしを噛むたびに汗が吹き出てポタッ、ポタッと雫が落ちる。

 この異常な暑さの中、熱いサンマー麺は少々しんどい。しかし、次へ次へと箸が伸びる美味しさだ。

 その名の由来は諸説あるが、生き馬のように元気になるから生馬サンマー麺、という説が好きだ。港湾労働者に愛された説も横浜らしいし、何より安いから納得出来る。


 横浜市民は、イメージ先行のお洒落な横浜が好きではない。それは本当の横浜じゃないよ、丘陵地帯で農業も盛ん、綺麗じゃない場所もある。ちょうどこのサンマー麺みたいな横浜だ。それはそれで良さがある。

 だから横浜を舞台にした物語を見て、違うんだよと文句をつけながらも、ちゃんと見る。そして観光客がイメージする横浜も、実は好きでよく訪れる。

 僕も妻も、そうだった。


 真実の横浜は、季刊誌『横濱』に載っている。

 神奈川を拠点にする新聞社が、横浜市民のために横浜市内で販売しているグラフ雑誌……それはズルいか、本当に真実なのだから。

 創作物で本当の横浜を描いたはあるだろうか、と考えを巡らせてみたものの思いつかない。横浜市民は横浜が好きな癖して、理想の横浜に難癖つけすぎだ、今は横浜を離れてしまった自分も含めて。

 生粋のツンデレか!


 さて、残ったもやし半袋はナムルにして冷凍し、ついでに足りない冷凍おかずのストックを作り……としていたら、あっという間の夕方だ。妻を迎えるなどとのたまって、結局食べてばかりじゃないか。美味しいものが好きだった、とはいえ酷い。


 黄色く染まった空気の中、送り火を炊く。うねる麻殻おがら、精霊馬と精霊牛の尻を侘しく見つめる。もう帰ってしまうのか、こんな迎え方でよかったのか、もっと違った歓待があったのでは、妻は喜んでくれたのか、そう考えを巡らせていた。


 背後に、人より強い気配があった。妻だ、間違いなく妻だ。


 また、帰っておいで。僕はいつでも待ってるよ。


 そのとき、麻殻の炎がのたうち回った。慌てた僕は、何を思ったか熱された皿に水をかけた。

 皿は、音を立てて弾け飛んだ。怪我などないが、シュウシュウとうめく麻殻と破片に狼狽えて、あぁあぁあぁと情けない声を漏らしてしまった。


「……ちゃんとした皿、買おう」

 皿を引き上げた僕は財布を掴み、ホームセンターへと向かっていった。

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