第8話『夫婦善哉』
パソコンを前にした僕は、血の気が引いて青ざめて、次には恥辱に目を見開いて真っ赤に染まった。
画面に映し出したのは、公募に落ちて共同出版を決めた小説だ。
あまりに稚拙、あまりに乱雑、あまりに暗くて、救いがない。妻の目を盗んで隙間隙間で書いたとはいえ、こんなものを本にするのか、こんなもので金を取るのか、こんなものに僕はいくら注ぎ込んだ。
これで満足してはいけない、これで満足していいはずがない。リベンジだ、リトライだ、新しい小説を公募に出して小説家に再チャレンジだ。
それでは、何を書けばいい。そう考えて、すぐに浮かんだのは幼少から聞かされていた、母方の祖父の話だった。
『お爺さんは「つばめ」のコックだったんだ』
「つばめ」は列車の愛称のことであり、この場合はかつて東京〜大阪間を結んでいた特急列車を指している。
つまり、祖父は食堂車のコックだった。それも、母に聞いてみたら戦前の話だという。
さて、参った。戦後の食堂車であれば資料も証言もたくさんあるが、これが戦前になると列車自体の情報さえも激減する。
どんな車両が使われていたか、どんな料理が提供されたか、どんな仕事だったのか……。
祖父に聞けばいいのだが、とっくに鬼籍で自身のことを話さなかった。実の娘である母でさえ、戦前の祖父は風来坊のコックと聞いたほか、わからないことだらけである。
どんな店で働いたのか、母は伯母と一緒に調べている。断片的にわかった事実を、僕は断片的に聞いていた。
わからないのは史料として欠陥だが、嘘が書いてあるよりマシだ。しかし、この逆が許される場合がひとつだけある。
物語だ。わからないの空白を、創造でつなぎ合わせて、それがストーリーに生まれ変わる。
断片的にしかわからない戦前の食堂車を、断片的にしかわからない祖父が埋め合わせることで、物語が生まれる。
構成は……清水義範先生の『12皿の特別料理』がいい、ひとつのメニューに対して一話のオムニバス形式だ。覚えたての料理、そして食べ歩いた経験が活かされる。
老舗洋食屋が多い横浜に暮らして、妻はしばしば「旅」と称して僕と一緒に食べ歩きをした。横浜のソウルフード、サンマー麺。そしてスパゲティでも一番好きだと言っていたナポリタン。
しかし案外、戦後間もなくからの洋食屋が多く、スパゲティが普及するのも戦後からだ。当然、ナポリタンの原型も戦後のホテルニューグランドから、というのは最近有名になった話。
三国同盟を結んでいたのに、イタリア料理が戦後からとは不思議だな。
社員旅行で大阪に行った折、織田作之助の『夫婦善哉』に憧れて、難波自由軒で混ぜカレーを食べた経験を活かせるじゃないか!
そもそも、祖父の話を小説化したいと長らく胸に秘めていたのが、自由軒に行った理由でもある。前の会社は副業禁止だったから、定年退職後のライフワークにと温めていた。
今こそ、祖父の物語を小説にするときなんだ。
まぁ、今の会社も副業禁止なんだけど……。
共同出版は、秘密にしておかなければならない。
それに両親にも、だ。妻の話で本を出す、それで素直に喜ぶとは限らない。人を金に替えるのか、と責められても反論できない。
だが、少なくとも今度の話は、両親に知られてもいい内容だ。今度こそ、本を出版すると胸を張って言える。
それも、公募で賞を取ってからの話だけど。
狙う公募は、次が三回目のグルメ小説の小説賞。大手出版社主催で書籍化はもちろんのこと、賞金も大きい。原稿用紙換算で二百枚、共同出版を進めている小説と文章量は近い。
何より昨今は鉄道ブーム、日本の鉄道開業百五十周年を控えており、私鉄が協賛している小説賞だ。
これは、行けるかもしれない。僕は思わずほくそ笑んだ。
まずは、これに備えて集めた資料をまとめて年表を作り、洋食にまつわるストーリーを組み立てる。出来上がったストーリーを年表にはめて、期限までに執筆すればいい。
祖父を蘇らせるんだ、華やかな戦前昭和黄金期を現代に現すんだ、車掌経験を注ぎ込んで鉄道を臨場感たっぷりに描いてみせる。
僕は手の平大のノートを開き、見開きを一年分として昭和史、鉄道史、そして祖父が上京してすぐに働いた宮家の出来事を、その年ごとに書き出した。
そこへ思いついたストーリーを乗せ、それにまつわる洋食メニューをサブタイトルとする。
……実際の祖父と離れてしまった。食堂車を通して時代を描く都合上、宮家に仕えるのが物語の最後になってしまっている。
そこへふと、文筆舎の内藤の言葉が浮かんだ。
『大丈夫ですよ、これは小説ですから』
そうだ、これは創作した物語。揺るぎない史実は無視出来ないが、主人公は祖父そのものではなく、祖父をモデルにしたキャラクター、魅力的な物語が優先される小説なんだ。
プロットを組み立てて、揺るぎようがなく隙間もない、これ以上もこれ以下もない物語が出来上がるのを感じられた。
あとは、ひたすら執筆するのみ。タイトルはすでに決まっている、これもまた揺るがしようがない。
パソコンの文書作成ソフトを開き、二重鉤括弧に小説のタイトルを打ち込んだ。
『列車食堂』
僕は、空より広く海より深い小説の世界へと引き込まれていった。
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