第7話『ビビンパ』
カウンターだけの小さな焼肉屋。補聴器をつけているお父さんと、
引き戸を開けると「いらっしゃいませ」の甘い声が、僕を奥の席へと引き寄せる。席の数だけ並んだ銀色ダクト越しに、メニュー表が差し出される。
清水義範先生の『ビビンパ』で描かれる、家族で来られる無煙ロースターの焼肉屋とは程遠い。例として出される、入るのを躊躇ってしまう昔ながらの焼肉屋。家族焼肉に興奮気味のお父さんも、それに呆れるお母さんも、思春期真っ只中で無愛想な息子も、大きくなったのにまだ中身が子供な娘も、来るような店ではない。
焼肉をつまみに、カウンターに積まれたにんにくを焼いて箸休めにし、お酒を楽しむ店である。
下戸の僕が手に取ったのは、定食のメニュー表。カルビ、ハラミ、ロースのどれか一皿にご飯とスープ、サラダにキムチがついてくる。
この店に入ろう、と言ったのは妻だった。僕は昔から知ってはいたが、いわゆる「キタナシュラン」という店構えで、素通りするばかりだった。そしてそれは、すぐさま後悔させられる。
妻の、美味しい店に対する嗅覚は凄まじかった。「ここにしたい」と言った店で、外したことは一度もない。
一方、僕が行こうと言った店は味が落ちていたりサービスが悪くなっていたり、散々な目に遭うことが多かった。
僕が紹介して妻が気に入ってくれた店は、中国人が営んでいる町中華に見せかけた本格中華と、前の勤め先の近くにあった変わった親父のラーメン屋。
町中華は整骨院で施術を受けたあとに使っているが、ラーメン屋は何年か前に閉まってしまった。
そうそう、この焼肉屋には、ひとりで入ったことがない。一度は車掌時代の弟子を連れて、あとは妻とふたりで使った。だから息子さんは、ハラミ定食を注文した折に意外そうな顔をした。
「……奥様は?」
「実は、昨年末に亡くなりまして……。四十九日を二月に終えたので、今日はそのお礼に」
百貨店で買った菓子折りを手渡すと、息子さんはうつむいてからお父さんに注文を通し、補聴器に耳打ちをした。
この店では、塊肉に包丁を入れて供してくれる。
お父さんが肉を切っている間、息子さんがご飯とスープとサラダ、キムチを並べて七輪を置く。各席にあるダクトは、そのためである。
肉を切り終えたお父さんは、店の角に置いてあるテレビを見ては、配膳をする息子さんに楽しそうに話しかける。耳がよくないから、番組には必ず字幕がある。
で、ついに肉が来た。
熱された網にハラミを載せる。表面を覆う灰色に脂が落ちて、音とともに煙を立てる。直上のダクトが立ち上る煙を吸い込んでも、匂いばかりは逃げ場がない。これが昔ながらの焼肉屋、服に匂いがつく代償は、舌の上で広がる旨みが支払ってくれる。
ああ……やっぱりこの店が最高だ。妻よ、よくぞ誘ってくれた。
店の壁際、棚には猫の置物が飾られている。息子さんは猫好きだけど、飲食店だからと言って町猫の世話と猫グッズの収集で我慢している。
その中には、妻がプレゼントした置物もある。猫の置物を通して妻に感謝し、仕上がった肉を口へと運んだ。
いっとき、息子さんが店から離れた。町猫の世話でもするのだろうか。それとも、会計時に渡す甘味を買いに走ったのだろうか。
食事を終えて会計すると、息子さんが神妙な顔をして甘味を渡し、それからポケットに手を入れた。
「……お悔やみ申し上げます」
差し出されたのは、香典だった。
僕は深々と頭を下げて店を去り、街灯の明かりが当たらない街角へと身を潜めて、泣いた。
僕は何をしているのだろうか。お礼を告げに来たはずが、人の気持ちを沈ませて、気を遣わせてしまっていた。
これでは、僕は死神だ。僕が伝える真実は、人を不幸に陥れる悪魔の角笛でしかない。
自分を死神だと思うのは、これで何度目だろう。
妻が自ら生命を絶ち、家族や警察、葬儀屋や菩提寺とのやり取りを終えて、妻の友人に告げられたのは、葬儀日程が決まった大晦日の夜だった。
真実を告げられて「どうして! どうして!」と泣き叫ぶ電話の向こうに、僕はただひたすらに謝ることしか出来なかった。
電話をかけるたびに苦しめられて、心が折れそうになってなお、僕は電話をかけ続けた。
囁きが聞こえる。
何も、こんな夜に言わなくても──。
囁いたのは、天使か悪魔かはわからない。わからないが、悪魔かも知れなくて、僕は間違いなく悪魔に魂を売った死神だった。
涙を拭って、夜空を仰ぐ。菩提寺の住職がつけた妻の戒名、月が綺麗な夜だったからと「月」の一字が入れられていた。その甲斐あって月を見るたび、僕は妻に思いを馳せる。
永遠の生命を授けようと詭弁を叩き、妻と僕との物語を売り物にする。それは悪魔の所業なのだろうか。
『ビビンパ』に描かれた、疎ましく見えて温かい、そんな家庭が夜空の果てに遠のいていく。そういう気がしてならなかった。
僕はひとりで駅へと向かい、妻との思い出だけになった町をあとにした。
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