第6話『ハモニカ文庫』

 四月は、僕と妻が一緒に暮らしはじめた記念日がある。十月に顔を合わせて、付き合ってすぐに婚約をしたら、気が早いと父に咎められて七月の入籍を目指して同棲を決めた。


 墓参りをして電車に乗って、百貨店に寄ってから妻と十年暮らした町へ向かう。僕が勤めた私鉄の駅からJR駅まで伸びる商店街は、実家から徒歩二十分の距離で車掌として勤めた間の通勤経路で、その途上に建つマンションを買って一緒に暮らした。

 今は、人の手に渡っている。


 私鉄駅を出てすぐ、テイクアウト専門の焼鳥屋がもうもうと煙を立てている。妻の好みはカシラで、鉄分が足りないからとレバー、立ち寄った際は必ずこのふたつを注文していた。

 その向かいにはカメラ屋があり、銀塩写真を趣味にしていた僕は学生時代からよく覗いていた。妻は店番している猫たちを可愛がっており、大人しくてまん丸いハチワレ猫が大好きだった。


 この商店街は一本道だが国道で分断されており、それを境に商店会も分かれている。私鉄駅側は呑み屋だらけで、国道寄りの一軒は下戸の僕がときどき通った店だ。料理が美味しく、お酒の種類が多く、ひとりで切り盛りしているお兄さんは威勢がよくて面白い。

 美味しい料理も美味しいお酒も好きだった妻は、このお兄さんが苦手だと言っていたけど。


 国道の向こうは普通の商店街だが、この町での力が強い。金融機関を巻き込んで商店街を盛り上げており、この通り沿いの建物は店舗型でなければ商店会が許可しない。

 それだけの施策をしても、年々元気がなくなっている。シャッターが増え、新しい店が開いても一時の流行に乗った水物で、町の景色に馴染んだ頃には閉まってしまう。


 僕たちの家はこちら側にあったから、よく使った店が多い。


 お爺さん兄弟が営んでいた魚屋は保冷庫が壊れていたが、昔気質な人柄に魅了された妻は魚をここで買うと決めていた。数年前、痩せ型の弟さんが店に出なくなり、お兄さんも歳だからと店を閉めたのは一昨年だったか。商店街のシンボルだったが、今は更地になっている。


 魚屋跡地は丁字路の角で、そこからは別の商店街が伸びている。営業している店は少ないが、活気があるのはお菓子屋さん。昔ながらの量り売り、冬はホットケーキ生地の鯛焼きで、夏には色とりどりのかき氷で老いも若きも集まってくる。

 暑がりで冷たいものが好きだった妻は、お爺さんの優しさにも惹かれてかき氷を買っていた。


 元の商店街に戻って、魚屋跡地の斜向かい。野菜と果物はここと妻が決めた、比較的新しい八百屋がある。値段は普通、物がいい、美味しくないものは仕入れないし、馴染になればオマケをしてくれる。

 こちらはおじさん、おばさんといった年頃の夫婦が営んでいる。娘さんや息子さんも、大きくなった今は店に出ている。


 僕たち夫婦が揃ってうつ病になったとき、親身になって助けてくれた。この八百屋とのつながりを妻が作っていなければ、今の僕がどうなっていたか、わからない。


 商店街の途中から、細い路地が伸びている。ここを抜けた先にあるマンションが、僕たちが暮らした家だった。何せ路地だから舗装が酷くて、妻はよく足を捻挫していた。

「捻挫癖があるのに、あんな道を歩いちゃダメ!」

と妻がよく叱られていた整骨院は、魚屋跡地と路地のちょうど真ん中。通いはじめたきっかけは、僕が乗務中に立てなくなるほどの腰痛に襲われたから。


 今、暮らしている町でも整骨院を探したが、僕の身体のあまりの硬さに先生が音を上げたから、今も電車を乗り継いで通っている。

 今日はその予約の日だった。

「いらっしゃいませ!」

 会釈をし、診察券をカウンターに置き、長椅子に座って順番を待つ。呼ばれたら指定のベッドにうつ伏せになり、低周波治療とマッサージを受ける。


「遠くから、ありがとうございます」

「いいえ、今日も硬いでしょう?」

 改札業務は立ちっぱなしだから、脚に堪える。無意識的に気を張っているから、肩から背中にかけての張りも酷い。

 それでも、揺れる車内で前屈みを強いられた車掌時代比べれば、通院ペースを週二回から十日に一回ほどに落とせるほど緩和している。転職は、思わぬ効果をもたらしていた。


「はい! お疲れ様でした」

「ありがとうございました」

 のっそりと身体を起こすと堰を切った血流が頭をボーッと、視界を霞ませチカチカさせた。四十肩歴十年は伊達じゃない、かなり凝っていたようだ。

 十日ほどあとの予約を取り、会釈をして整骨院をあとにする。


 JR駅はもう少し、というところで商店街の終端である。整骨院からそこまでの間には、小さなスーパーや百貨店にも出店している練り物屋、ドラッグストアなんかがある。スーパーでは肉を、練り物屋では挨拶の品を、ドラッグストアでは様々な日用品をと、生活する上で欠かせない店ばかりだったが、コミュニケーションは希薄だった。


 店の間口ひとつひとつを音階にしてハーモニカに例えるならば、目立たなくとも下地を支えるベースになるだろう。真ん中あたりの商店街らしい活気がメロディで……音楽には詳しくないから、たとえ話はここまで。


 山川直人さんの『ハモニカ文庫』駅から商店街を抜けて家に至るまでを描いた話が、何でもないのに印象深い。

 それを範とするならば、駅から僕たちが暮らしたマンションまで、どうやって案内したのだろう。


 引っ越して妻が去った今はもう、その案内をすることはない。

 僕はJR駅ではなく、商店街の入口に横たわっている通りへと折れていった。

 案内はしなくても、挨拶するべき人がいるのだ。

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