第5話『12皿の特別料理』

 出版社の口座に振込をして、共同出版をスタートさせた。須田編集はこれから原稿に目を通し、校正作業を行うのだろう。予定によれば三ヶ月後に校正が送られて、半年後には僕の小説が本になる。


 おかしいところがないかと一言一句チェックするのは、時間も労力も大いにかかるのは容易に想像が出来る。ましてやズブの素人が、それも「委員会の仕事」と言って、妻の目を盗んで書いたもの。粗があるのは承知の上で、そんなものを公募に出すなど無茶にもほどがある。


 気持ちと金額の大きな仕事を終えた僕は、時間と体力が余っている。そして足りないものと言えば、会社に持っていくお弁当のおかず。

 妻が遺した本の中には、冷凍出来るおかずの本が数冊ある。作った弁当を会社でのお昼ごはんにしている僕は、とても重宝している、のだが……。


 問題は、きんぴらである。どの本を開いても関東風のきんぴらしか載っていない。

 幼い頃から食べてきたきんぴらは、煮汁に浸った柔らかいきんぴらだった。しかし給食やスーパー、食堂では煮汁がないきんぴらが供される。わざわざ煮汁を切っていると勝手に思い込んでいたが、そうではないと教えてくれたのは清水義範先生のテーマ短編集『12皿の特別料理』だった。


 その名も「きんぴら」という短編で、東京生まれの奥さんが名古屋生まれの旦那さんに翻弄される、文化の違いを描いた軽妙なコメディ作品だ。

 この短編集の優れた点は、それぞれ味わいの違う料理小説であるのと、レシピ本としても使えることだ。そこで名古屋、つまり西日本流の煮汁ひたひたきんぴらが載っている。旦那さんのお母さんが勘で作るレシピだから、ざっくりとしか書かれていないが、ちゃんと作れる。


 ただ台所で本を開いて料理して汚してしまうのは勘弁なので、調味料の分量だけをメモに記して戸棚に貼りつけている。

 これを元にして、きんぴらを作ろう。それもきんぴられんこんを。

 野菜の中では、れんこんがダントツに大好きだ。煮てよし、揚げてよし、サクサクして、ホクホクとして、ほんのりとした甘みもある。


 うどんが大好きだった妻と一緒にうどんチェーン店に行った折には、必ずと言っていいほどれんこん天を取っていた。きんぴらでも、ごぼうより圧倒的にれんこん推しだ。

 妻は純粋なうどん好きだったから、釜揚げうどんが多かった。芋好きでもあったので、天ぷらを頼むときは芋天が鉄板。


 うどんチェーン店は、讃岐うどんに似せたもの。だから僕も美味しく食べられたけど、元来うどんは嫌いだった。

 もっと言えば、関東風の黒いつゆに硬いうどんがダメだった。美味しいと感じたことが、まるっきりない。


 しかしこれも、うどん好きの妻に付き合っているうちに少しずつ克服するんだから、夫婦というのは不思議なものだ。

 でも、どちらも食べられるのなら関西風を選んでしまう。根っこのところは、そう簡単に変われないのだ。


 さて、きんぴら。穴ボコだらけの半月にして、水にさらして灰汁を抜き、ごま油で輪唐辛子と炒めて煮汁を注ぐ。ふつふつと沸く煮汁を見つめるうちに、妻との何気ない会話が思い出された。

「きんぴらって関東は炒め物で、関西は煮物だね」

「きんぴらは炒め煮だよ?」

 あの少ないタレで『煮る』なのか、などと釈然としない僕だった。すき焼きだって、関西は砂糖醤油で焼いてからお湯を注ぐのに対し、関東はいきなり割り下で煮るのに『焼き』なんだから、わけがわからない。


 こんな僕だから、妻は心底面倒だったろうな。


 それでも妻が関西風の味に納得してくれたのは、僕の母が作った料理を気に入ってくれたから。夫婦で実家に帰るたび、母の料理を楽しみにしていた。

 帰宅する直前にはコンビニに寄り、買い物で緊張を解いてはいたけれど。


 いや、譲れないところも、妻にはあったな。

 妻の母は、親から別れさせられたシングルマザーだったそうで、その再婚相手がお義父さん。お義父さんの親族が反対する中、味方になってくれたのがお祖母ちゃんで、実の孫と分け隔てなく可愛がってくれた。また妻はお母さんを早くに亡くしたから、お祖母ちゃんでもあり、お母さんの代わりだった。

 そのお祖母ちゃんに教わった味は貫きたい、と妻は言って……関東風のきんぴらを作ったんだ。


『12皿の特別料理』には関東風のきんぴらレシピも載っているけど、お祖母ちゃんの味とは違うだろうし、ごめん、作る気は起こらない。

 関西風のきんぴらを作っているのは、僕が気ままに過ごしている証拠であって、僕がひとりになった証拠でもあるんだろうな。


 煮汁が少なくなったので火を止めて、タッパーに敷いた紙製カップに、きんぴられんこんを詰める。いっぱいになっても、鍋底にはちょっとだけ残っていた。

 明日のお弁当にしようか、晩ごはんの一品に加えようか……。


 晩ごはんにしよう、そう決めて小皿に盛りつけ、冷蔵庫に仕舞った。味が染みた煮物なら冷めたままでも美味しいはずだ。

 ならば、これを軸にして晩の献立を決めないと。

「和食……和食かなぁ」

 たった数枚のれんこんに、晩ごはんの献立が振り回される。冷蔵庫には納豆、冷凍庫には鯵の開き、ご飯も小松菜もタッパーに詰めて冷凍している。


 そういうわけで、ご飯に味噌汁、納豆に鯵の開きと小松菜おひたし、そしてきんぴられんこんが夜のテーブルに並んだ。

「朝ご飯みたいだな……」

 まぁいいか美味しければと、きんぴられんこんに箸を伸ばした。

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