第4話『漫画家残酷物語』

 出版社とはどういうところで、編集者とはどういう人たちなんだろうか。小説よりも圧倒的に、漫画のほうが出版社や編集者を描いているから、それをもとにイメージする。

 古いところでは永島慎二先生『漫画家残酷物語』で、有名どころは藤子不二雄A先生『まんが道』。最近では唐沢なをき先生の『まんが極道』が出版社や編集者の事情を描いている。


 今どき『まんが道』のような熱い編集者はいないと聞くし、事実ベースながら『まんが極道』は一応ギャグだから、そのとおりとはならないだろう。

 そもそも漫画と小説、更には商業出版と共同出版では違う、気がする。

 それでも『漫画家残酷物語』にあるような、失意の漫画家を土壇場で救うような物語を知れば、どうしたって期待してしまう。


 久しぶりにスーツをまとい、東京の出版社に電車で向かう。受付で名前を申し出て、案内されたのは窓辺にテーブルがいくつも並び、あとはすべて本棚というフロアだった。

 他のテーブルでは、執筆者と編集者の真剣勝負が繰り広げられている。

 窓からは、妻が好んだ庭園がチラリと見える。梅の花を愛した妻と、あっちこっちの名所を巡った中で訪れた。


 遠くなってしまった日に思いを馳せる僕のもとへ、担当編集の内藤が自信に満ちた足さばきでやって来た。挨拶を交わして、編集長の意見をまとめた紙を指し示す。これは、落選通知と共同出版の案内と一緒にもらったものだ。

 指摘はあったものの、感触は悪くなかった。これで佳作にも選ばれないのかと、文芸の厳しさを痛感しつつ、思わず笑みが溢れたものだ。


 たとえお世辞だとしても、褒められると気持ちがふわふわと浮ついてしまう。


 今の会社は互いに労い支え合う社風だが、以前の会社は作業は出来て当たり前、鉄道は安全で当たり前という考えで、褒める文化が希薄だった。それを十三年近く続けてきたから、褒められることに慣れていない。嬉しい、よりは、参ったな、と眉をひそめてしまうのだ。


 編集長の意見に続き、内藤が僕の小説の援護射撃を並び立てた。

「編集長は指摘しますが、それは違うと思います。ここがこの小説のよい点です。また小説という形式がいい、小説を書く力もある。これは売れない小説ですが、この世には必要なんです」


 はたから聞いたら歯の浮くような営業トークと思うだろうし、僕自身もそう思って半信半疑で聞いた。それでも経験を書いた身としては、心情を理解してくれていると信じたかったし、内藤から嘘は透けて見えなかった。

 物語の世界で、妻に永遠の生命を与えよう。その想いがより一層強くなった。


 だが、共同出版で支払う額は決して安くはない。妻から許された金額で叶うのは、提示されたプランのうち百冊とギリギリ目一杯の三百冊、発行部数に比例して置いてくれる書店が増える。

 三百冊も売れる自信はなかったが、少しでも販路を広げたい。しかし基本の表紙デザインではフリー素材を使ったもので、見せてもらった事例はピンと来ないし、僕には明確なイメージがあった。


「亡くなった妻との約束で、許された金額は三百部のプランなんです。表紙のイメージなんですが」

 メモを千切り、海岸線に沿って走る電車を描く。

「しっかりしたイメージをお持ちなんですね。少し待ってもらえますか」

 と、内藤は一旦席を離れて、笑みを含んで戻ってきた。

「この金額で表紙デザインのオプションもつけられます。デザイナーは、この中から選んでください」


 どこでもそうだろうが、社員しか知り得ない情報を漏洩すれば退職金は全額没収、裁判沙汰の可能性だって大いにある。

 それを前提として、車掌の取り扱いなどは会社が公表しているものや、観察すればわかるものだけを描いた。会社が特定される駅名も書かなかったり、近くの地名に置き換えたりした。

 物語の都合上、会社内でのやり取りについて描かざるを得ないから、会社の特定は極力避けなければならないのだ。


 ところが提示された装丁で自著に合うと思えたのは、緻密に描くデザイナーだった。申し訳なかったが、この物語に他のデザイナーはあり得ない。

 だが会社が特定出来る表紙では、すべてが水泡に帰すかも知れない。だからこそ表紙のイメージは、あえてラフに描いたのだが……。


 それらの懸念を伝えると内藤は強く、それでいてあっさりと言い放った。

「大丈夫ですよ、これは小説ですから」

 そ、そうなのか、虚構ならば許されるのか……。

 もし裁判となれば、出版社だって巻き込まれるに違いない。その出版社の社員が言うのだから、信じよう。


 それとは別に、僕には迷いがあった。この物語のテーマである、うつ病や世間との戦いに真っ向から対抗する真実だ。

「妻が亡くなったことは、公表すべきでしょうか」

「山口さんの本ですから、お好きになさってはいいのではないでしょうか」

 僕自身に出せない答えを、内藤にも出せなかったのは当然かも知れないが、曖昧でもいいから背中を押して欲しかった。


 そして僕は、うつ病や世間と戦う人々と、彼らに寄り添う人々を落胆させたくないと、真実を黙っていることにした。

 これは小説だ、妻はその小説で永遠に生き続けるんだ、と。


「それでは、指定口座に契約金額を振り込めば企画がスタートします。今後は、別のオフィスの須田が編集として担当しますので、宜しくお願いします」

 えっ、と口をついた虚を、僕は固く飲み込んだ。

 気づいてはいたが、そうか、僕もまた客なんだ、と。

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