第3話『小林カツ代の基本のおかず』

 さて、どうしたものか。小説の書籍化より喫緊の課題が、僕の眼前に立ち塞がっている。


 三連休で作ったカレー、そのために買った野菜が浮いている。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ……で、僕はハタとした。

「そうだ、肉じゃが作ろう」

 ならば牛肉はあっただろうか。冷凍庫のストックを探ってみるが、豚肉と豚ひき肉だけである。


 牛肉でなければ、ダメなんだ。


 母方は滋賀大津の出。関東では手に入らないものや、信州長野にルーツを持つ父に妥協した折衷料理ではあったが、東京蒲田生まれでありながら関西の味つけで僕は育った。

 だから、肉じゃがは牛肉でなければならない。


 それじゃあ、買い物だ。肉ならスーパー、候補は二店。家から見て真反対、両方回って比較するのは時間のロスが大きいし、さっきの店が安かったからと戻って、二兎も得ずとなりかねない。

 自転車に跨った時点で行く店を決めて、ペダルを踏み込む。


 うん……まぁ、この値段なら、ありかな。大きいのを買って、残りは冷凍しておこう。

 あとは、風呂上がりに飲む炭酸飲料。これは風呂上がりに紙パック飲料を必ず飲んだ、妻の影響。

 それから足りなくなりそうなものも買い、家路を急ぐ。前カゴに仕舞ったのは生モノで、暖かな春先だから、あんまりのんびりはしていられない。


 家に入って、牛肉をチルド室にすぐさま収める。冷やさなければいけないもの、冷やしたほうがいいもの、常温でいいものと、それぞれを所定の場所に仕舞ってから、牛肉の冷凍に取りかかる。

 百グラムずつラップにくるみ、保冷バックに詰め込んで、いっぱいになったら冷凍庫に仕舞う。八百グラムを選んだのに、五十グラムの半端が出るのはどうしてなんだ。誤差にも限度があるだろうと自嘲する。


 今日の晩ごはん、肉じゃがを作ろう。頼りにするのは『小林カツ代の基本のおかず』これもまた、妻が遺してくれたもの。

 早くに母を亡くした妻は料理が好きになり、料理教室に通ったこともあるそうだ。が、東日本の味で育ったものだから、関西風を好む僕に苦労をした。


 自分で作ればいいじゃない、それが当然なのだが僕がまともな料理を作れるようになったのは、妻がこの世を去ってから。

 年の瀬、妻はたくさんの食材を買い込んでいた。立派な泥ねぎが三本、大きな白菜が丸々一個、その他諸々。

 それをどうすればいいのか、と通夜の精進落としで目を回してこぼしたところ、母や伯母から「食べればいいじゃない」の集中砲火を浴びてしまった。


 会社のお昼ごはんは、前夜に妻が作ったお弁当を持って行っていた。これからは僕が、これを作る。

 冷凍食品も使っていたが、野菜のおかずは少なく割高に感じていたので、妻が作って小分けにして、タッパーに入れて冷凍していた。


 泥ねぎは斜め切りして、タッパーに小分けにして冷凍した。白菜は妻が遺したレシピ本を頼りにし、冷凍おかずに変貌させた。

 妻が母を亡くしたときのように、妻を亡くした僕も料理の道へと歩まされ、次第にその面白さに取り憑かれていった。


 もともと何かを作るのが好きだった、というのもあるんだろうね。


 肉じゃがに入れるには、にんじんが多い。ならば煮込んでいる間、スライサーで細切りにしてツナと一緒に油炒め、にんじんしりしりにしよう。お弁当の彩りにはピッタリだ。


 にんじんの皮をピーラーで剥き、スライサーの刃を細切りのに変えて、にんじんしりしりの下準備。調子に乗って、指まで切ってしまわないよう──。

 にんじんは一旦ボールに入れて、次は肉じゃがの下準備、あっ……。


「にんじん、全部切っちゃった……」


 それじゃあ、にんじん抜きの肉じゃがだ。明日のお弁当に、今から作るにんじんしりしりを入れればいい。

 気を取り直して、今日は小林カツ代先生に従う。幸か不幸か、レシピににんじんは使われていない。

 玉ねぎ半分はくし切りに、じゃがいもはひと口大に。肉じゃがのタレを作って、深鍋に火をかけ油を注ぐ。鍋底にサラサラと油が流れて、まんべんなく回っていったら、頃合いだ。


 玉ねぎを炒めて半透明になった頃に、小林カツ代先生が言ったとおりに牛肉と作ったタレをドカッと入れる。火が通るまで炒めたら、じゃがいもをゴロゴロ入れて、たっぷりの水を注いで煮込む。


 今度は、にんじんしりしりだ。フライパンに油を注ぎ、熱い鍋底にしっかりまとわせ、細切りにしたにんじんを入れる。しんなりしたら塩こしょう、油ごとツナ缶を入れて、また炒める。ツナがほぐれて火が通ったら、完成だ。

 紙製の小分けカップをタッパーに並べて、出来たばかりのにんじんしりしりを盛りつけ、冷凍する。


 一服して、じゃがいもの具合を覗ってみる。気が早いと芯まで火が通っていないし、なるべくタレを染み込ませたい。

 あんまり欲をかくと煮崩れる、晩ごはんの時間にちょうどいいから、このくらいにしておこう。

 お弁当箱を開け、紙製トレーを敷いて肉じゃがを入れる。煮物は冷めるときに味が染み込む、明日のお昼は染み染み肉じゃが。


 ご飯は専用のタッパーで冷凍してある、ひとり分の味噌汁は大変だからインスタントを使っている。

 それぞれを配膳し「いただきます」と、誰に言うでもなく手を合わせてから、箸を取る。

 そして、叫んだ。


「うめぇ! めっちゃうめぇ! 小林カツ代先生、凄え!」


 バクバクと肉じゃがを食べて、落ち着けと言わんばかりにご飯や味噌汁にも手を伸ばす。

 幸せをホクホクと噛み締めて、これを妻にも食べてもらいたかった、と残念な笑みを浮かべた。


 妻は生命を絶つ一ヶ月前から、食べては吐いてを繰り返していた。

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