第2話『口笛小曲集』

「結婚していらっしゃるの?」

 気心の知れたお客様にそう尋ねられて、僕の胸がチクリと痛んだ。誤解のもとは、僕の薬指にあったからだ。

「実は昨年末、妻を亡くしまして……外せないだけなんです」


 それは悪いことを聞いてしまった、お客様は表情を曇らせてから、慈しみの光を差した。

「私も夫を亡くして、ずいぶん経つわ」

 お客様は僕から見れば母親くらいの年齢だから、義理の息子のように寄り添ってくださっている。


 そうして言葉を交わしていると、改札窓口に主任が来たので、お客様は会釈をしてその場を離れた。

 窓口資金を引き継ぐと、主任が悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ファンのお客様が出来るとは、さすがですね」

「いや、半年もいますから。僕よりファンが多い方もいらっしゃいますし」


 それでも前の職場ではクレーマーにマークされることはあっても、ファンのお客様が出来るなどあり得ないことだった。

『地域に根ざした鉄道の、町の玄関である駅。その駅の顔になりたい』

 今の会社への転職のために用意した言葉、それが現実味を帯びてきて、自分自身が驚かされていた。


「ああ、すみません。休憩ですね」

「すみません、他は何もありません、宜しくお願いします」

 主任に促され、休憩のために事務所へ戻る。そこでは助役が、いつ訪れるかわからないお客様や異常事態に備えて待機していた。

「休憩頂きます」

「どうぞー」


 この駅で喫煙者は、僕ひとり。休憩室での食事のほかは、喫煙所に自室のように籠もっているのが常だった。

 煙草に火をつけ、お茶を口にし、スマートフォンをチェックする。と、僕の手元が震わされた。

 ここから電話がかかるのは、二回目だ。また営業だろうと、ちょっとだけ眉をひそめて電話を取る。

「はい、山口です」

『わたくし、文筆舎編集部の内藤と申します。今、お電話大丈夫でしょうか?』


 転職に三十六歳限界説が囁かれていた頃、まさに僕が三十六歳で転職活動を行っていた。私鉄を車掌十三年弱、資格もほかで使えるスキルもないから、茨の道を覚悟した。

「私が働くから、好きな仕事を選んでね。専業主夫だっていいから」

 妻が背中を押してくれても、未経験の異業種では箸にも棒にも掛からなかった。僕はエントリー落ちを繰り返しており、妻も准看護師では勤め先が見つからない。


 縋る思いで掴んだのは、藁ではなく筆だった。


 物語のはじまりは、車掌三年目の僕。

 SNSのコミュニティで彼女と出会い、互いに気になりはじめた頃、規約違反の退会処分を覚悟して僕は彼女にDMを送った。

 私鉄で車掌をしています、弊社沿線の海に行きませんか?

 その誘いに彼女は乗った。横浜駅で待ち合わせ、一日乗車券を手渡して、電車に乗って海に向かう。


 海岸線を歩きながら話を聞くうち、年老いた姿が互いに思い浮かんでいた。同時に僕は、離れてしまってはうつ病の彼女が死んでしまうかも知れない、彼女を看取るのは僕でありたいと、そう願った。

 親の反対を押し切って、一年と待たずに果たしたスピード婚。妻は「車掌さんと結婚するんだ」と、喜んでいた。


 それを耳にした僕は、ちょっとだけ複雑な気分になった。大好きな山川直人さんの漫画『口笛小曲集』収録の「ひとりあるき」と重なったからだ。

『オマエが好きになったのは 漫画を描いている俺だろ?』

 車掌だから、僕と結婚したのかと。

 車掌の僕と、結婚したんだろうか、と。

 変な考えはよせ、と自分に言い聞かせていたが、それが車掌に生涯を捧げる覚悟をさせた。


 それから妻はうつ病に苦しめられて、僕は神経症とうつを患い、一時的に休職した。

 そこまでを妻にも内緒で小説にして、転職活動の一環として文学賞に応募した。


 文学賞は箸にも棒にも掛からなかったが、出版社から「共同出版しませんか?」と誘われた。

 小説公募の事情を知らないまま、妻は

「退職金のこれだけは好きに使っていいよ」

と言ってくれたが、僕の病休を主な原因とした借金があったのと、妻の許しを遥かに超えた出版費用を負担出来ないと、丁重に断っていた。


 編集者は、僕の事情を鑑みた提案をした。

『前回はハードカバーでのご提案でしたが、今回は文庫サイズを新たに企画しましたので、そのご案内をさせて頂きます』

 聞けば、ハードカバーよりも費用負担が軽くなるそうだ。自費出版とは違ってISBNがつき、提携書店に流通させられ、国会図書館にも納められる。時間はかかり、ほんの一握りではあるが、共同出版からミリオンセラーになった本もある。


 物語の中で、亡き妻に永遠の生命を吹き込める。僕にはそう感じられた。


 具体的な出版費用は定められておらず、その都度の交渉で決まるそうだ。だが、このプランなら僕に許された金額で出版出来るかも知れない。

 話を聞くだけならと、出版社で交渉の約束を取りつけた。編集者に考える素振りを見せはしたが、僕の心は大きく振れていた。


 借金は、妻の生命保険で完済していた。

 保険会社から振り込まれた札束をキャッシュディスペンサに呑み込ませている瞬間の、妻の身を削ぐような痛みが忘れられない。


 僕はまた、亡き妻の身を切り刻んで売り物にするのか。

 編集者との話を終えると「ひとりあるき」のエンディング間近の一コマが寒々しく過っていった。


『あなたはいいわ 漫画があるんだから

 私とのことだってアレンジして作品にすれば

 いい経験だったで すむんだものね…』

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