第1話『すみっこの空さん』
朝ラッシュが終わりに差しかかった、改札窓口。後任者である先輩に引き継ぎを終えると、何気ない会話がマスク越しにはじまった。
「三連休、どこか行くんですか?」
そういう先輩も、三連休明けだった。
僕の今の勤め先、鉄道駅の勤務は二十四時間拘束の交代制。ランダムに見える長いスパンのシフトでは、日勤の休暇も含めた三連休がときどき発生していた。
それで先輩と入れ替わるように、明日からは僕が三連休。今日の非番も含めれば四連休とも言えた。
「出掛けるのは、ちょっと……。近所のスーパーに買い物ですね、あとは家で映画を観るか」
マスクで顔の大部分を隠していたから、僕は目元を意識して苦笑した。先輩も同じように愛想笑いをする。
世界中で流行している感染症が上陸したのは、妻が生命を絶って、すぐあとだった。毎日報道されるのは急進的な呼吸症状に苦しむ患者、追いつかない感染予防策、行き届かない治療、そして壮絶な医療の現場。
准看護師だった妻が生きていたら、今どうなっていたのだろう。
どうだったかな。准看だからと、いい就職先にはなかなか就けず、ずっと苦労させられていたから。
閉塞した三連休を、どう過ごそうか。それが僕にとって喫緊にして軽微な課題だった。だから参考にしようと、先輩に問いかけた。
「どこか行かれたんですか?」
「いや、カレー作りました」
それもいいかも知れない、僕の心は動かされた。
改札窓口から事務室に戻り、上司と雑談混じりの引き継ぎをして、ロッカー室へ。二十五時間ぶりに私服に袖を通して、制服制帽をロッカーに仕舞う。
「お先に失礼します」
職場をあとにし、電車に乗って神奈川県央の自宅へ帰る。
駅から徒歩十数分、戸建てを連ねたようなテラスハウスが僕の家。家賃と、階段のある家がいい、という妻の希望で決めた家だ。ふたりには広すぎる家だが、揃って収集癖があったから、これでちょうどいい。
玄関扉を開けて「ただいま!」ダイニングに鞄を置いて、二階から響く足音に導かれ、階段を静かに駆け上がる。
ちょっとだけ扉を引いて、すり抜けるように十畳間に入って、すぐさま扉をピシャッと閉める。僕の足には三匹の猫が絡みつき、すぐさま隣の寝室へと走っていった。
欲しがっているのは、ドライフードの『ごはん』じゃない。作りつけの戸棚に仕舞っているウェットタイプのキャットフード『おやつ』だ。
一応ごはんを先に出すが、愛猫たちは目もくれず戸棚に手をついて、僕におねだりをしている。
「はいはい、おやつね」
戸棚を開けて、おやつを取って、封を切る。愛猫たちは、ずっと僕の手を追っている。
ひとつを三つに分けて与えて、夢中になって皿に顔を突っ込む隙に、僕は一階へと降りる。
ダイニングに続く、六畳のリビング。一面に本棚があって、もう一面にテレビがあって、その向かいにリクライニングチェアが二脚。部屋の中央には、本棚に収まりきらない本の山。残った一面はカラーボックスと、妻の仏壇。
本の山を回り込み、蝋燭の火を線香に移し、香炉に寝かせて
ここまでが、非番の帰宅のルーティン。
そうそう、カレーだ。鞄からショルダーバッグに財布を移して、玄関先に引っ掛けている鍵を取り、解錠した自転車に跨った。
うちの自転車は、二台ある。妻の払い下げである無変速と、妻の六段変速の、それぞれママチャリ。乗ってみれば変速出来たほうが遥かに楽で、ひとりの今は妻の自転車を借りっぱなしだ。
カレールーは、あのスーパー。野菜は八百屋で、肉は冷凍していたものがある。そう食材を揃えて、ひとりには大きい鍋をコンロに置いた。
カレーで連想するのは『すみっこの空さん』。絵が可愛いからと妻が買った、たなかのか先生の哲学漫画だ。
自信を失った絵本作家が、自分にも出来ることがあると確かめるためカレーを作る、そのエピソードが印象深い。
今まで食べてきたように野菜を切って、肉を炒め野菜を炒め、指定どおりの水を注いで、指定された時間だけしばらく煮込む。火を止め、カレールーを砕いて入れて、余熱でしっかり溶かせば見紛うことなきカレーの出来上がり。
箱に書いてあるとおりに作ればカレーが出来る、本に描いてあるとおりだ。
駅員に転職して、約半年。僕には自信があるのかと、カレーがことこと問いかける。
どうかなぁ、格好はついてきたように思うけど。
出来たばかりで昼ごはんだから、煮込みを兼ねてスパゲティを茹でる。これもまた定められた時間のとおり、七分間。
トングで麺を引き上げて、皿に盛って完成したてのカレーをかける。カレーはまだサラサラで、麺を黄色く染め上げてからスルスル通り抜けていく。
まだ、そう見えているだけ、そういうことか。
洗いかごからフォークを取り、カレースパゲティをテーブルに並べる。
「いただきます」
なるべくカレーが絡むようフォークに巻きつけ、口に運ぶ。食べてみれば、しっかりカレーだ。
このカレーは、箱によると四人前。今晩、明朝、明日の昼か晩、時が経つに連れて仕上がっていく、そのはずだ。傷んでしまわないように、蓋で密封をして冷蔵庫に仕舞い込む。
さて、あとは何をしよう。
短い仮眠では寝足りないから、ひとまず寝よう。皿洗いは目覚めてから、あと洗濯もしないと制服のシャツが間に合わない。
寝室に上がり、ベッドに転がった僕に猫が甘えてすり寄った。気高い長女は胸に乗り、食いしん坊で甘えん坊の長男は顔を叩き、末っ子はちょっかいを出した長女に殴られた。
「……寝かせてくれよぉ……」
頭の天辺まで布団に潜ると、長女と末っ子は妻のベッドに飛んで、長男は布団に潜り込んだ。
妻の遺品は、まったく処分出来ていない。
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