第48話・超人

 ゲームから現実に戻り、部屋の電気を灯した。するとノックの音が部屋に転がり込むのだ。

 父の帰る時間は決まっている。立場上残業はないし、電車のダイアが変わることがないから。この繰り返しの一回を一日と人は呼んだらしいのだ。


『悠希、父さんだ。少しいいだろうか?』


 扉の向こうから声が聞こえる。Linneで送ったメッセージを汲んでくれたみたいだ。

 僕は扉を開ける。


「おかえりお父さん!」


 少し危惧はしていた。足がすくむかもだとか、声が出なくなるかもだとかだ。

 でも扉を開けてみたらなんのことはない、僕は笑えている。いやむしろ、顔は勝手にほころんでいたのだ。


「あぁ、悠希ただいま! ん? 悠希こんなに可愛かったか?」


 あ、違うのだ。これまでとは何もかもが。父は僕の目を見ている。僕はそれに気づいて、父の目を見ている。

 何でもないようなことが、きっと人間関係の基盤なのだ。父のなんだか細められたような、ほころんだような目が、ふわふわとして見えた。


「この顔になったのは父さんのせいもあると思うけど?」


 父は特に女顔というわけではない。でも、整っていて、少し優しそうに見える。それが童顔な産みの母の血と結びつき、女性的な魅力面ばかりが僕の顔に継承された。

 ここに僕の歴史がある。ここで生まれたのだから、ここに見つけるべき自分がある。


「なら父さんにも功績があるんだな!」


 もうちょっと、ギリギリでいいから男に見える顔に産めなかったものかとは思ったこともある。でも、生まれてしまったものは仕方がないし、不便は消えた。

 無理に男らしく振舞おうとはもう思わない。


「まぁ、いいや! 不自由してないし、嫌いじゃなくなったからね! それよりも、僕はお礼を言いたいんだよ! 画材、注文してくれてありがとう! まだ届いてないけどウキウキしてる!」


 リアルで絵を書くなんて、父さんに言われるまで思わなかったなぁ。デジタル専門って思ってた。

 でもいざ手に入ることを考えると、心がウキウキとしだして、それを父がかってくれたと考えると、もっとひどい。僕の情熱はもう、誰にも止められないだろう。


「くそぉ……財布がいてぇ……」


 そう言って、父は目頭を押さえた。ホロリと、頬に光る涙。なのに口角は上がっていて、朗らかな笑顔に見えた。


「ふふふ! 本当にありがとう! 届くの楽しみにして、いっぱい練習する。画用紙とか、いっぱい使うかも! いい?」


 届いたらリアルの絵をいっぱい書こう。デッサンとかもやったりして……。

 美大とかもいいかもしれない。でも、倫理や哲学も勉強したい。あぁ、僕は貪欲だ。知識欲にあふれて生きるのが楽しい。勿体無い、死にたいだなんて勿体無い。


 言葉にできないほどの感情は今も溢れてて、だからもうこの人生はこれでいい。これこそが僕の人生なのだ。僕は僕を愛してる。僕の肉体を魂が愛して、僕の魂を肉体が愛している。これ以上は、別にあってもなくてもいい。

 ただ、生きよう。


「もちろんだ……もちろんなんだよ……。あぁ、本当に、絶対に、もちろんだ」


 何度も何度も父さんは言葉にした。なんで涙があふれるのだろうか……。

 ただ、顔はほころんだまま、悲しさや寒さなんて一点もない。


 あってもなくてもいいと決めた瞬間、溢れるのだ。自分を全肯定した瞬間、それ以上の幸福が世界から解き放たれる。

 熱い、気が狂ってしまいそうだ。幸福の熱は、まるで津波のように僕を飲み込むのだ。


「ありがとう! ねぇ父さん、僕のこと愛してくれてるんだね?」


 父は僕に愛する理由をくれた。だから愛そう。そもそも愛したい、それが人間なのかもしれない。


「当たり前だ! 悠希を愛さなかったときなんてないんだ。だって、父さんだぞ?」


 そうだと思った。ねじれてしまっただけだ。

 頭にあったものが、感情の奥深く魂の根底にまで熱を伝える。


「僕も愛してるよ! 父さん、大好き!」


 惜しまない。もう何も。

 いくらでも言葉にしよう。感情を閉じ込めるのはやめたんだ。どっちにしろ、僕を嫌いになってしまう人はきっといる。なら、自由に、楽しく。


「俺にはそんな資格は……」


 父さんはそう言った。深い後悔があるのだろう。


「知らない。大好き!」


 僕は人生における最大の福音を、世界から得た。僕にはもう、世界を愛するきっかけがある。理由がある、権利がある。だから、父さんに否定させない。

 父さんに権利があるかどうかなんて、僕の問題じゃない。僕は父を大好きになった。そこで僕の問題は完全解決だ。

 涙は止まらないけど、でも悲しみなんていっぺんもない。大切なのは僕が幸福だということ。そしてそれを認めること。


「ありがとう……。許してくれてありがとう」


 そうか、これは父さんを許したことになるのか。よくわからない。怒りの感情がどこにも見つからないから。

 肩が、頬が、心臓が、どこもかしこも力が抜けて暖かい。


「しーらない! 怒ったことない!」


 ただ恐れただけだ。自分を守ろうと殻に閉じこもっただけだ。

 僕の心は愛を斯く語りき……。

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