第12話・さます

 という話を母とした。

 いつも俺は、父が仕事に出かけるまで狸寝入りを決め込んでいる。父も朝は王族という母の食生活をさせられている。健康に最もいいのだ、やるべきである。


「愛してるのはあの時最後にわかったんだけどね、本当に言いすぎたよ」


 母さんは完全なのだと思っていた、きっと間違えることなどないだろうと。

 昨日話を聞くまでは。

 朝食にはいつも味噌汁。これがスーパーフードなのだとか。ゆっくりと登る湯気を眺めながら、話を聞いていた。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 発端は母さんがこの家に来て最初の日の夜。

 それまでに、母にさんざん褒められ、俺は戸惑っていた。どうにも出来が悪い息子って、外で言っていたらしい。でも、それ自体はよくあることだ。少し間違った謙遜だと、母は言う。“勿体無い息子”と謙遜するのがよいのだとか。


「ゆーきってすごい子じゃんか! 出来が悪いって、やっぱり謙遜だったんじゃないか! テスト、85点だってさ!」


 勉強はできない方ではなかった。いい子ちゃんのフリをしていれば、怒られる理由はほんの少し減る。だから、楽だったんだ。

 母が掲げるテストを一瞥し、父は深いため息をついた。

 そして、深い失意の色を滲ませた声で言うのだ。


「こんな字では、将来苦労をするぞ……」


 それは、いつものことだった。いくら点数が高かろうが言われる。でも、点数が低いと、それも含めて苦労するのだ。


「あ?」


 母の声は既にドスが効いた声になっていた。


「いいか? 履歴書に、書類に、大人になってからも字はたくさん使う。だが、大人になってこんな字では馬鹿にされる。大体、俺たちが願いを込めてつけた名を、こんな字で書かれて、俺がどう思うか……」


 父は額に手を当てて言った。


「おい黙れ!」


 人生で聞いた中でこれほど冷たい声があっただろうか。俺はその時母が怖くなった。


「は?」


 父はその声に唖然として、視線を返す。


「いいか? あんたがやってんのは典型的なロジックハラスメントだ。そりゃ正しいよ、だけどな気持ちよくなってねぇかコラ! ゆーきの手を見てみろ! あのちっこい手で、一日なん文字書いてると思ってやがる!? アタシら大人とは書く文字数が違うんだよ! それにな、願いを込めて付けた名だ!? ンなのガキに関係あるわけねぇだろ! てめぇがてめぇで勝手にぶっ込んだ願いだ! それを好きにさせるのも嫌いにさせるのもてめぇ次第だ! 多少汚ねぇ書き方だから、叱るだァ!? 嫌われて当然だろうが!!!」


 そして怒涛のように返される怒号。固く握られた拳。

 喧嘩が始まるのだと、感じた。


「猫を被っていたのか? 結婚詐欺まがいだな!?」


 逆上する父。

 環境そのものが、恐ろしくてたまらなくなった。その時、俺は無我夢中で自分を責めた。


「ごめんなさい!」


 そう、叫ばずにいられなかった。

 いつも不満を持って叫んでも、最後には自分が責められる。だったら最初から謝罪を叫んでしまえ。それが、それまでの俺の人生の教訓だった。

 そうして、逃げて、逃げて、その時までを生きた。

 だが、叫んで良かったとそのときは真逆の意味で思えた。


「ゆーき、悪かった。アタシはさ、短気でがらっぱちでさ。でも、これからゆーきのお母ちゃんになりたい。だから、ちょっと落ち着いて話すな」


 母は俺より頭一つ背が高い。それが、膝を曲げて、目線を合わせて話してくれたのだ。

 そしてこの時初めて、俺の言葉をこの母が受け止めてくれた。“ごめんなさい”に含まれた、恐怖を読み取ってくれた。それまで、こうなったときはいないものとされていたのに。


「おい! 話は……」


 父は俺と母の間に割り込んできた。


「悪い」


 そんな父を母は逆に一瞬だけいないものとして扱った。母はそれだけ言って、俺にニカッとした笑顔を向けてきた。不覚にもこの時だ、ざまぁみろと思ったのは。

 でもそれは、思い返せば他責思考が強すぎたかもしれない。

 そして、その後振り返ったのだ。


「お話、しようぜ……」


 なんて言いながら。

 後から聞いたが、これが仲直りできたのは、母が俺を愛すると決めてここに来たからだとか。父はすっかり諭され、俺への愛が変に歪んだ作用を産む過程を丸裸にされたとか。

 そんなことをされたからだろうか、父は母の話を聞くらしい。どれほど腹がたっても、決して声を荒げずに。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 そんな苦い過去も、暖かい味噌汁と一緒に飲み干すつもりだった。


「あちっ!」


 そのときは一瞬が永遠のように感じた。でも一瞬は一瞬だ。一分は一分なのだ。

 地球の自転は誰にでも平等で、時の進みは速くも遅くもなったりしない。


「きをつけろー」


 そんな俺を見て母は笑う。回想に耽った時間は、本当に僅かだったのだ。


「うん。ふー! ふー!」


 だから、今度はしっかりと感覚を今に戻そう。過去に囚われるのはもう終わり。

 最初の一口は喉元をすぎて熱さを忘れた。だけど、次の一口はしっかりとさましてから味わうのだ。


「うまいか?」


 いつも聞かれる定番。


「じゃなきゃこんなに食べれない!」


 答えるのもまた、なんとなく和んでしまうようなことなのだ。

 その後は母と一緒に新しい日課をこなす。DJママのラジオストレッチ体操とでも言ったら、面白いだろうか……。

 繰り返しの中には飽きるものもあり、和むものもあるのである。

 今更ながら、母の名前は照喜という。男っぽいが、それが彼女にはにあっている気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る