第9話・津波

 チュートリアルを突破すると、なかなかにいい時間になった。


 だから、そこでゲームをやめて、最初に訪れる町アイン・ブルクには明日行くことにして、それをβ時代の仲間たちとも共有した。


 笑っていた。だって、指数関数にしたがために、チュートリアル突破に初日を費やしてしまったのである。奴らが一番俺のプレイヤースキルを知っている。だから、突破できない展開を予想していなかったのだ。


 ただ、マッソー田だけは返事をくれなかった。きっとプレイ中か、今は忙しいか、どっちかである。


 だから、俺は部屋を出て今日最後の食事を取りに行く。いつも果物一つだ。それを食べながら母と話して、ほんのちょっと空腹のまま眠りにつく。すると、朝はたくさん食べられる。案外いいサイクルになっているのだ。

 扉を開けた。


「ゆ……悠希……?」


 かけられた、低い声に思わず体を硬直させた。


「そ、その……これまで、すまなかった! お、大きくなったな……」


 おべっかだ。俺の身長は、これっぽっちも大きくなっていない。でも、なんだろう。これが、俺の父さんなのか、わからなくなった。


「う……うん」


 だから、息を通そうとしない喉を無理やり押し開いて、出ない声を出してみた。

 結果、小さく、蚊の鳴くような声だった。


「そ、そうか。ところで、最近は……何をやってるんだ?」


 ぎこちない言い方だった。でも、それで俺には十分だったのだ。

 それを聞かれて、俺の喉は一切息を通さなくなった。


「ゆーき! 今……」


 階下から、母が顔を出したおかげで助かった。

 母は俺と、父が対峙しているのを見ると、すぐさま駆けつけてくれた。そして、俺を部屋に押し込んで、抱きしめてくれた。


「父さんと話をするから、少し待ってろな? できるか?」


 俺は、こくりと頷いた。

 すると、母は嬉しいのだと言わんばかりの笑顔を向けて、撫でながら言ってくれた。


「偉いぞ!」


 弱った心にそれが染みて、思わず涙がこぼれだした。


「すぐ、戻るからな」


 母は耳元にその言葉を置いて、扉の外に出た。

 涙は音もなくこぼれ落ちるから、無音で暗い部屋の中に、扉の外から音が転がり込んでくる。


『俺は……俺は……』


 本当にこれが父なのかと、そんな風に思える後悔の音色が聞こえる。


知則とものり、アタシは昔と同じようにあんたがゆーきを問い詰めようと思ったとは感じてない。実際そうだろ? だから、あんたが何を聞きたかったか教えてくれ』


 俺だけが止まったままなんだ。父はあの母に影響されているのだろうか、前に進んでいるように感じている。不覚にも、少しだけかっこいいと思った。


『絵が……見たかった』


 そんなことかと、扉を挟んで思った。


『……は?』


 ストレートに言われたら、俺も心の中で同じ反応を返してしまっただろう。


『お前があんなに褒めちぎるんだ! 俺だって見てみたい! そう思うのは……今更おかしいだろうか?』


 そんなことを思っていたのかと考えると、後悔と自己嫌悪が襲ってくる。


『あ、いや。謝るよ。あんたがあまりに前向きになって、びっくりして思考停止したんだ。ごめん。ただ、“お前”はよくない。名前かあなたかあんた、そう決めたじゃないか?』


 母は“あんた”も良い呼び方と定めている。あなたと呼ぶのはあまりに他人行儀だから、砕いて“あんた”。“お前”はナチュラルに他人を尊敬できる人のみの特権と定められている。

 我が家の立法であり、王である。


『そうだった。すまない。でも、俺は悠希と今更ながら向き合いたいんだ』


 本当に今更だけど、それが嬉しくて。好きになるように、少しだけ行動をしてみようかと思い始めたのだ。


『そりゃ、いいね! だけど、いきなり面と向かうにはちょっと過去が重すぎる。だから、まずは扉越しから……。そんな風にできないか?』


 確かに、それなら俺もきっと話せる。


『悠希にすまないことをした。次は絶対にそうしよう』


 あぁ……。もう……。


『ん、頼む』


 本当に心から、ごちゃごちゃの感情がまるで絡まった毛糸玉のように一人で解けなくなってしまった。

 そんな風に悩んでいると、父との話を終えた母が扉を開けた。廊下は明るくて、逆光で顔はよく見えない。

 ただ、手を伸ばしたのだ。慰めて欲しくて、言葉を聞きたくて。


「ゆーき、よく言葉を返した! 自慢の息子だ! 怖かったろう? いっちょまえだ!」


 そして、溢れ出す褒め言葉の洪水。抱きしめられて、耳元でそれが溢れ出してくる。怒涛の如く押し流されそうになるが、固辞することしかできなった。


「やめてよ。俺は、醜いんだ。父さんは心を入れ替えようとしてる、なのに俺は遊んでばっかりで。それなのに、ざまぁみろだなんて思ってたんだ! 母さんに褒めてもらえるような立派なことなんて何もしてない……」


 感情の堰は一度切られると、濁流になる。同じ勢いに任せた言葉の羅列でも、母は綺麗で、俺は汚い。汚れて澱んだ醜い感情を、苦しさといっしょに吐き出しているだけだ。

 母は本当に言葉だけ汚くて、ほかの全てが綺麗だ。俺は、そうはなれない気がする。


「何悲劇のヒロインぶってんだよ! ゆーきは勇者じゃんか!」


 母は笑って言う。真っ暗な部屋なのに、そこだけパッと明るく見えた。


「え?」


 俺はそんな風に言ってもらえる事をしたのだろうか。否応なく、言葉に飲み込まれる。愛情に押し流される。

 溜め込んだだけの感情は、大海の津波には勝れないのだ。


「返事しただろ? あんなに怖がってた父親に返事したんだ! そりゃ、ちっぽけに見えるだろ? でもな、ゆーきは動いた。デカ過ぎる一歩踏み込んで、ちょっとバランス崩しただけだ」


 あぁ、なんでだろう。めちゃくちゃのはずなのに論破されてしまう。いや、論破されたくなってしまう。自分がすごいことをしたって、想いたくなってしまう。


「うん……」


 ポロリポロリと、雫が伝う感触がやけにつくて、気が付けば肯定していた。

 これでいい、これがいいと思いたくなってしまっていた。

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