第4話・世界は変わっていく

 その後、午前11時頃、俺は母に呼ばれた。まだ、ゲームの正式リリース前で俺は暇を極める。だから、すぐに降りたのだ。

 呼ばれてリビングに降りると、そこにはハサミとマントのようなものを構えた母が居た。


「髪、切らせてくれない? 美容師免許とってきた!」


 この母親の行動力よ……。笑顔で構えているのだが、後ろに後光すら見えるほどだ。


 母は現在専業主婦である。その理由は、父曰く妻に働かせるのは甲斐性の無い男がすることだとか。前妻を潰して何を今更と思うから、おそらく世間体のためだろう。


 父は、他人が一人でもいると、聖人君子のように振舞う。最近は母にも萎縮しているのだろう、そのように振舞う。おかげで本当に快適だ。母が声を荒げれば、黒も白にできる。昭和の亭主関白を気取っていた父が、怒鳴り飛ばされるのは不覚にもスカっとした。


 普通の聖人君子になれば、きっとこの環境も幸せに思えるだろう。母は、破天荒ではあるが、人の心には寄り添う人だ。


「えっと……俺、自分の顔見たくなくて伸ばしてるんだけど……」


 というのは半分、前髪だけの話。後ろ髪も伸びているのは、単純に床屋に行く道中が怖いからだ。人の目線に触れながら歩くのが怖い。人の、パンチのリーチの中を通るのが怖い。経験したこともない暴力におびえているのだ。


「アタシは見たいんだが……ダメか? ダメなら、後ろだけにするよ……」


 母はそう言いながらも、眉尻がどんどんと下がり、非常に残念そうな顔になった。


「す、少し長めに。そんなに見たいなら、それでもやりようあるでしょ?」


 だから、懇願した。頼むから、あまり切りすぎないで欲しいと。

 すると、母の顔はパッと華やいだ。

 ……ずるいと思う。恩人のくせにそんな顔をして、俺はどんどん断れなくなってしまうじゃないか。


「じゃあ、ヘアピンで」


 そう言いながら、母は俺を鏡の前の椅子に座らせた。


「俺、自分の顔見たくないって言ったんだけど?」


 もうずっと見てない俺の顔は、きっと醜いに決まってる。


「アタシの好きなようにやっちゃうよ?」


 本当にずるい。断りたくても、断れないようなことばかり言う。

 でも、考えてみればそもそも、散髪自体を断ればいいのだ。ままよの心で、俺は抵抗をやめることにした。


「んじゃ、ちょっと濡らすな」


 霧吹きで、髪が濡らされていく。前髪に、霧の粒が当たって、極小の雫がいくつも張り付いていった。


「アタシさ、ゆーきの顔好きだ。整っててさ、おめめパッチリ。それにまつげもクソ長い」


 母は俺の髪をかき分けた。

 顔があらわになる。髪の影に隠れていたものが、不意にあらわになった。

 不意打ちで、目を閉じるのを忘れてた。


「ほら、美人さんだ」


 なんだ……悪くないじゃん。

 そう思ったのはつかの間だった。


「女の子だこれー!!!」


 俺がうまく絵に落とし込めるタイプの顔。つまり、女性に分類される顔である。

 確かにこれじゃ、母の言うとおりである。目なんて、大きく描くぞこの顔を俺が描くなら。まつげだって死ぬほど盛ってやる。手間暇かけて表現してやりたくなる顔だ。


「うん、うちの子超可愛い!」


 母は満面の笑みで言う。その言葉には同意だ。同意ではあるのだが……。

 いかんせんこれが俺の顔についているのだ。俺の顔についていなければ、思わずデッサンを始める顔なのに。シャープな輪郭、肌は雪のように白い。これは……ヒッキーやってたせいである。この顔が好きな人が居ることは保証する。だが、俺は好きじゃない。俺だから。


「ほら、ここで前髪作ったら、超可愛いぞ。後ろは残そう、リボンなんかで結んでもいい」


 怒涛の情報の洪水に、俺は目眩を覚えた。


「いや、無理! そんなに顔出る髪型無理! ってか、俺を女の子にしたいの!? って、なんで息子じゃなくてうちの子って呼んだ!?」


 もはやツッコミどころの羅列だ。怒涛にツッコミを入れねば、おいていかれる。おいて行かれた先には、多分であるが首から上を女装させられる。


「というのは冗談だ。慣れないうちは、ここで切ろう。そんで、片目だけ出してゆっくり慣れよう」


 本当に、暴君ではあるのだ。だけど、こっちの気持ちにも寄り添ってくれて、いつだってちょうどいい急かし方をしてくれる。だから、俺はついて行ってみようかなという気分にさせられるのだ。


「う……うん」


 そうして母は散髪を始めた。

 思えばそうだ。楽しいことは悪であると、父に教えられ続けた。母が来てから真逆だ。楽しいことや、与えられる愛情は、心という演算装置を動かす燃料である。

 体は食べ物で動くが、心は幸福で動くのだ。今は、燃料がゼロだから、補給しろ。それが母から与えられた最初の指令だ。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 切り終わると、俺の髪型は前髪の長いショートボブだった。


「うん! 似合う!」


 母の言葉にも同意できる。確かにこの顔立ちだったら、ショートボブでも似合うに決まってる。ただ、言わせてもらいたい事があるとすれば……。


「女の子の髪型だこれー!!!」


 をおいて、他にないだろう。鏡に映る姿は、無表情なショートボブの女の子。

 こんなに叫んでおいて、表情が動かないのは、きっと表情筋が死んでいるせいだ。もう何年もほとんど使っていなかった筋肉である。


「はーい、お客さん。顔マッサージするぞー!」


 その凝り固まった表情筋も母はほぐすつもりでいるようである。

 ただ、化粧水とか乳液とか用意してるのを俺は見落とさない。


「エステ!!??」


 しかも、女の子が通うタイプの美容エステである。


「ボディーもやろっか?」


 ツッコめばツッコむほど、ドツボにはまっていくようである。

 結局それらは全て執行された。気持ちよかったので、ほかの問題には目を瞑ろう。

 俺も、俺のこの顔に似合う、男っぽい髪型など思いつかない。思いつかない以上、提案できない。恩人が切ってくれたのだ、しばらくこの髪型で甘んじよう。

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