第32話 黎明の騎士
――紗枝が死んだ。
その事実を目の当たりにして、俺の理性は保てるわけがなかった。
妹の掠れた声が心臓を掴むようで、潤んだ目を細め、傷だらけの顔をほころばせて笑みを浮かべる。
(どうして今笑うんだよ……)
死に際だというのに、それを忘れてしまうかのような夢心地な笑みが信じられなかった。
思わず妹の手を取ろうとした次の瞬間、飯井崎光寛の生きる意味、守るべき存在が、目の前で光の粒となって消滅した。
……………………。
これほどまでに脆弱さを彷彿とさせる死に方はないだろう。
せめて死体だけでも残ってほしかったのに……それは叶わなかった。
そして悟った。
俺の妹は完全に死んでしまったのだ、と。
俺の中でぷつんと何かが途切れる音がする。
それは、俺が飯井崎光寛として理性を制するための枷であった。
紗枝という存在が引き留めていた枷は外れ、怒りの色に染まる。
復讐。
それだけのために、かつての俺は両親をも殺した。
大事な妹のために手を血で汚すことに、後悔なんて一切なかった。
光寛を抱えたまま、千歌は繭からの脱出に成功した。後ろから浮遊して追ってきたオーディアと合流し、繭から少し離れた建物に避難した。
「ふう、なんとか危なかったね。よく勇気を出したよ、千歌」
「それは……」
千歌は椅子にもたれかかりながら天井を見つめる男を一瞥した。
生きる希望を失った彼を直視できずに、また彼の妹を見殺しにしてしまったことに対して、言葉をかけていいのか躊躇ってしまう。
「光寛、その――」
「殺せ。もう、死にたい」
千歌の謝罪を遮るように光寛が言う。形骸のように一切動かない表情は、明らかに死を望んでいた。そしてその視線は意味深にも、千歌の装備する腰の長剣に向けられる。
「光寛殿、紗枝殿の敵を討とうとは思わないのですか? 今の貴方を見れば、彼女はきっと失望しますよ」
「俺にはもう悪魔の力はない。俺自身がやらなきゃ、敵討ちじゃないだろうし、無理に決まってる」
紗枝がアパスとの契約に懸けたものは二つあった。
紗枝自身の体と、光寛とアパスの契約だ。
アパスとの契約は満了せずに破棄されたため、懸けたものはすべて消滅した。つまり今の光寛は、一切の魔力を持たない”一般人”なのだ。
それをすべて察したオーディアは、宙を見つめる光寛を覆うように見下ろす。視界に入ってきた騎士の姿を追いやろうと顔を背けた。
「……今さら俺に何の用だ。お前との協定もないはずだろ。もう、ほっといてくれ……」
遣り切れなさに満ち、すでに自暴自棄となった光寛。その様子を見た千歌が触発され、鎧を解除した次の瞬間、光寛の頬を叩いた。
――バチンッ
静寂な空間に痛ましい音が反響した。
光寛を頬打ちした千歌は、しかし憐れむような悲しい表情で彼を見ていた。
「私は、少なくとも光寛が復讐に燃えるかと思っていた。けれど今の貴方は、自分で死ねないばかりか、妹の思いまで踏みにじろうとしている」
「どの口が言ってんだよ……どっかの誰かさんが早く来てくれりゃあ、紗枝は死んでなかったんじゃなかったのかよ!」
激昂した光寛は椅子を倒す勢いで立ち上がり、千歌の襟を掴み上げる。そのまま壁に押し付け、息が触れる距離で怒鳴り散らす。
「俺よりも強くて賢いくせして、いっちょ前に戦う度胸がない。今までのはただの騎士気取りだったのか? 俺だけを生かしておいて何の意味があるってんだよ!」
千歌は言われるがまま沈黙を貫き、目を逸らすことなく全てを受け止めた。
事実、千歌はアグレシアたちに対する恐怖で動くことすらできないでいたのだ。今まで格上と対峙したことがない千歌にとって、彼らの魔力の波長を感じるだけで慄然とするものである。
そして紗枝が消滅した瞬間まで、千歌は一歩も動かなかった。
しかし、紗枝が死んだ場面を目の当たりにし、千歌の中で恐怖とは別の何かが渦巻き、自らを縛る鎖を解いた。オーディアを言葉にならない声で呼び、よろめきながらも立ち上がって光寛の元へと飛び込び、そして今に至る。
千歌の呪縛を解き放ったのは、人間の死という単純な恐怖だ。千歌にとって、死とはただの犠牲か、人間の摂理だと考えていたが、紗枝の死は、それらをいとも容易く覆した。
死とは恐怖である。
家族を殺された千歌にとって、身近な人間の死を再び経験したことで、秩序や正義などとは別の〝養護欲〟が生まれたのだ。
死と言う悲しみに潰れる光寛こそ、自分の守るべき存在だと気づき、今の千歌は彼を生かそうと必死でいる。
「貴方はまだ死ぬべきではない。紗枝がどうして貴方を死ぬ気で守ろうとしていたか、それをまず知らなければならない」
光寛の左手首を掴み、固く握りしめられた手の中の髪留めがあるのを確認する。
「レジンの裏に、何か挟まっているはず」
千歌の指摘に光寛は咄嗟に髪留めを調べ、レジンの裏に小さく折り畳まれた紙を見つけた。髪を広げては食いつくように字面を見つめる。
『お兄ちゃんへ
私が死んでもアパスちゃんと仲良くしてね
それでいつか自分自身の生き方を見つけてください
だから死ぬまで生き抜いてください
今まで嘘ついてごめんなさい』
手のひらに収まる大きさの紙には、たったそれだけのことが記されていた。
小さく丸まった米粒ほどの大きさの字から紗枝の本心を知り、死にたい願望を思いとどまらせた。
胸の奥が熱くなり、それを満たそうとするが、手紙以上に得られるものもなく、虚しさを噛み締めて涙が溢れ出す。
紙を濡らし、床に落ちていく雫は跡形となく破裂する。
「おれは……俺は、まだ死ねない……生き続けなきゃ、いけない!」
流れる涙を何度も拭い、脳内で紗枝の言葉を繰り返し反芻する。
「俺は弱い……だから千歌、お前たちの力を貸してほしい。協定とか関係なしに、俺に協力してくれないか?」
床に這いつくばり、惨めにも土下座で千歌に頭を下げる。その懇願を千歌は微笑とともに受け入れた。
「貴方ならできる。だって、大切な人のために死ぬことも厭わないんだから」
「いや、死に行くんじゃない。生き抜くための力を取り戻しに行く。あの悪魔ともう一度契約をする。今俺にできることはそれだけだ」
澄み渡るように輝く黒い瞳は、千歌の「各上に対する恐怖心」を完全に払拭した。
千歌は光寛を引き上げ、互いに強い決意を眼差しに込めて見つめ合う。
「オーディア。貴方にも当然協力してもらうから」
「もちろんそのつもりさ。じゃあ、作戦を立てた後、再び戦場へと向かおう」
黒い雲に覆われた街に、少しだけ陽の光が覗いたようだった。
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