第31話 囚われの食欲と遁走
わずかな温もりの残る髪留めを、壊れてしまいそうなほど強く握る。それでも紗枝自身が戻ることはなく、虚無感と喪失感に項垂れてしまう。
絶望に堕ちた光寛を冷めた表情でドミネリアは黙視し、アグレシアに指示を出す。
「……アグレシア。《食欲》を捕らえろ」
「あいよぉ」
アグレシアは【本能解放】の効力が切れたのか、人の姿へと戻る。光寛のもとへ歩み寄ると、無気力だった光寛は殺気に満ちた視線を向ける。
「…………殺す。殺す殺す殺す」
「おお、怖えな。妹が死んで情緒が飛んでんじゃねえか」
最愛の妹を死に至らしめた存在に一矢報いようと、右手にダガーを実体化させようとする。
「……」
しかし光寛の意思に反応せず、それどころか悪魔の血による高揚感がない。
そこでようやく、アパスとの契約が解消されていることに気付く。
「……殺せ。俺を、殺せ」
自分に男を報復するための力がないと知り、せめて紗枝の後を追おうとした。
アグレシアは光寛の目の前で大剣を振るう。
しかし首元に刃が当たる寸前で剣は止まり、その風圧だけで光寛の体は吹き飛ばされてしまった。
地面に倒れ込み、起き上がろうともしない光寛を見て、男の口から呆れのため息が出た。
「ちっ……今のお前は殺す気にもならねえ。勝手にくたばってろ」
どす、と光寛の腹を蹴る。防御も取らないでいると、今度は神を掴まれ、地面に頭を打ち付けられる。浸透するような打撲感より辛苦が勝り、次第に自分の無気力に苛まれる。
すると光寛の懐から、紅い光の粒子が一粒だけ宙を浮いて出てきた。
「お前が《食欲》か。器を失って霊体をとどめるのに必死ってわけだな」
アグレシアはアパスの宿る紅い光を握り、それをドミネリアのところまで持っていく。その光を見るや否や、今までに見せなかった笑みを浮かべた。
「よくやった。さあ、あとは貴様の悪魔体から冠位を奪うまでだ」
指を鳴らすと、繭の底から細い糸が伸び、無数の糸が絡みついて一つの堅牢を形成した。紅い粒子を檻の中へと入れると、その粒子は女性の形へと姿を変えた。
艶やかな銀髪を足元まで垂れ伸ばし、細身のラインをなぞる漆黒のタイトドレスを身に着けている。左側の八重歯で歯軋りし、瞳の鬼灯に似た紅色は敵意を漂わせている。
堅牢の中央で膝を畳んで左腕を抑える女性は、檻の外から眺めるドミネリアに柳眉を逆立てた。
「ドミネリア……貴様の所業をいつまでも魔王が黙視すると思うなよ!」
「ふっ。堕落に更ける魔王など眼中にないわ。それよりも《食欲》。さすがは〝三大欲求の魔女〟と呼ばれるだけの美貌だな。此方より秀でた存在を見ていると、何でも奪いたくなるものだ。しかしまずは、貴様を魔女と云わしめるその冠位から頂くとしよう」
ドミネリアは再び指を鳴らすと、今度は繭の壁全体に変化が現れる。縦に組まれた糸の繊維が瞼のように開き、壁中に無数の大きな眼球が姿を現したのだ。醜悪な眼球の集まりは一斉にアパスを見つめる。
堅牢は吊るされた糸に引き上げられ、繭の中央部に固定される。アパスを凝視する眼球は瞬きを一切せず、ただ一点を見つめるだけ。そぞれの目が鼓動しているように瞳孔を伸縮させている。
不敵な笑みを浮かべるドミネリアは、宙に浮いた堅牢に向かって手をかざし、高らかに唱えた。
「特級能力――【常世全ての事物掌握せり】」
するとアパスに異変が起きる。まるで何かに縛り上げられたかのように小刻みに震えて苦しみだし、小さな口から唾液が滝のように流れ出す。何かを吐き出すように、何度も咽る。
「かっ、おえ! けほっけほ! ぶはっ……はぁ、はぁ」
「なかなか耐えるじゃないか。しかし胃の中で消化しきれずに埋もれている《性欲》は、そろそろ吐き出した方が楽になれるぞ」
「誰が、お前なんぞに……!」
「まったく強情な奴だ。魔女の共食いで得た《性欲》に、なぜそこまでこだわる?」
格子に掴まり、体の内部からこみ上げる嘔吐感に堪えながら言う。
「愛と言うものを……欲しているからだっ」
彼女の視線の先に、虚ろな目で横たわる光寛の姿があった。しかし、訴えるようなアパスの声は彼には届かない。
「なるほど。《性欲》を得ることで、《食欲》に囚われる野生本能を抑えていたのか。それにしても人間の愛を欲するか……ハハハハ! ではその愛を潰してやろう」
ドミネリアは嗤いを浮かべながら、暇をしていたアグレシアに目配せする。気だるげに頭を掻くが、機嫌を損ねてはいけないと思ったのだろう。ため息交じりに了承する。
「よかったな光寛。これで紗枝の後を追えるぞ」
「逃げろミツヒロ!゛うは……貴様っ」
「ひとおもいに逝かせてやるよ」
アパスの呼びかけも虚しく、アグレシアは光寛の首を掴みあげる。握力で首を絞め始め、首の骨ごと折ろうとする。抵抗することもなく、痛苦に叫びをあげることもせず、光寛はただ死期を望んでいた。
天井を仰ぎ、繭の穴から差し込む光を天からの啓示に見立て、恍惚に浸る――
しかしその光から飛び降りてきたのは 二人の騎士だった。どちらも同じ西洋の鎧を身に纏っており、兜に青い穂を伸ばした騎士が、千歌と思われる騎士を横抱きに持つ。そして屈強な脚で地面に着地する。
着地の衝撃に耐えたのは千歌ではなく、繭の恩恵を受けて実体化したオーディアであった。霊体の時とは違い、引き締まった身体バランスと、千歌より一回り大きい図体をもっている。
千歌を立たせると、オーディアは右手をアグレシアに向けて唱える。
「能力――【虚空拳】」
するとオーディアの手を握る動作が、離れたところにいるアグレシアの手首に作用した。剛腕を超える万力で、光寛の首を掴む手を離させた。
「いってぇな! んだよてめえ!」
どさりと光寛は床に落とされる。千歌は憤慨するアグレシアの横を通過して、うつ伏せの光寛を肩に担ぐ。そしてそのまま繭の壁が破壊されているところへ走り抜けた。
「おい待てよ! 逃げんのか⁉」
「遁走とは……《秩序欲》の貴様も落ちたものだな。オーディア」
ドミネリアは、光寛を抱えて駆ける千歌を横目に、悪魔体のオーディアを、嫌忌を含んだ目で睨みつけた。
「ようやく
アグレシアは悠々と喋る騎士に大剣を振るうが、直前で【霊体化】を発動し、鋭い一撃は虚空を捉える。
オーディアは霊体のまま、アグレシアの体をすり抜けて千歌を追うが、通りすがりに小声で言った。
「親父殿。貴方の首もですよ。ただ心配は要りません。貴方の息子さんがすべて果たしてくれるはずですから」
「おい! 待てよ幽霊野郎」
振り向いても、そこにはもう騎士の姿は映っていなかった。
アパスは堅牢の中から、光寛の救出に成功したオーディアたちを見届け、彼らの武運に懸けたのだ。
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