第26話 仲直り
紗枝は町中に潜む悪魔を、嗅覚で感知していた。
中層のオフィスビルの上で、人知れず鼻を利かす紗枝にアパスは話しかけた。
(紗枝よ。さすがにミツヒロを手酷くあしらうにも限度があると思うのだが)
「……わかってるよ。でもそうでもしないとお兄ちゃん、言うこと聞いてくれないし」
紗枝は伏し目がちに、中にいるアパスに独り言ちる。
すると紗枝の鼻が反応を示した。微弱な魔力の塊を見つけ、紗枝の食欲が顔を覗かせる。
「いた。ふっ!」
紗枝は建物の上を飛び移り、目標に向かって風を切った。
「ただいまー」
下級悪魔を八体呑み込み、紗枝は帰宅した。
悪魔の血で満腹となり、会心の笑みを浮かべていた。満腹になるまで悪魔を探し続け、町から外れた遠くの場所まで足を延ばしていたため、空はすでに薄暮に包まれている。
妹の帰還を聞きつけ、光寛が玄関に駆けつけた。
「紗枝! よかった、無事だったんだな!」
「ちょっ、苦しいからくっつかないで。汗とかもかいてるし……」
「怪我したところはないか? 痛いところがあれば言うんだぞ!」
執拗に紗枝の体を触る光寛を引き離し、異常はないと訴える。しかし一向に引く気のない姿勢に辟易として、紗枝は話を反らした。
「それよりもさっ、他に何か言うことあるでしょ。お兄ちゃんの胃袋まで満たしてあげたんだから」
「そうだな……俺が紗枝よりもっと強かったら、こんな血生臭い仕事をさせることもない。本当に、ダメな兄貴だよな。ごめん……」
おちぶれて萎れた声で頭を下げる光寛。
それを見た紗枝は虫の居所をさらに悪くしたようだ。
「…………もういい。今日は疲れたから早く寝る」
言って欲しかったことはそうではないと、紗枝は思った。いつものように正直になれない性が表出してしまう。
そんな紗枝を見て、アパスはどこか自分と同じ境遇で通じているのだと感じていた。
(しかしこの場合は、ミツヒロの鈍感さを考慮するとお互い様であるな)
***
そうして紗枝は毎日の食欲を満たすため、兄の代わりに町に潜む使徒を探し、【捕食者】で取り込む。そんな生活が一週間近く続いていた。
光寛は依然として紗枝の外出を止めようとするも、最終的に力づくに振り解かれてしまう。千歌に頼むが、兄妹の諍いに呆れて手を貸してくれない。
玄関から出る小さな背中を見送るたびに、光寛は自身の無力さに打ちひしがれていた。
「どうして、俺は弱いんだ……。
右手に出現させた短刀も、今では紗枝を守るには包丁程度に成り下がる。魔力総量も武器の扱いも、すべて紗枝が光寛を上回っているのだ。
かつて両親の暴力と社会に怯えていた妹とは思えない成長度合いに、兄は遠く離れていく星に手を伸ばすことしかできない。
それでも光寛は、兄として紗枝を守る側でいたかった。どれだけ罵倒されようとも、挫けそうなことがあっても、その意志だけは消えなかった。
ふとオーディアが言っていたことを思い出す。
『彼女はもう、光寛殿に助けられてばかりのか弱い少女ではないのですよ』
いつまでも守られる側でいてほしいという思いが、紗枝の成長を喜ぶ気持ちを妨げていることに気付いた。
「なんだか醜いな。昔はもっと素直に褒めてやれたのに」
失笑をこぼす。
視線を落とすと同時に、手にしていた刃に映る自分の顔に吐き気がした。
「今の俺がしてあげられることって何なんだ?」
刃を天井にかざし、刀身に映る自分自身に問いかけ、しばらく光寛は無心で自分を眺めていた。
「お兄ちゃん……何持ってるの?」
振り返ると、そこには風呂上がりで顔を火照らせた紗枝の姿があった。
一張羅同然のように愛用しているショートパンツから伸びる足は、健康的な脚線をあらわにし、肩にかかる短い髪は、洗ったばかりの艶やかな光沢を放っている。
妹が怒りを露わにしてることに気付かず、光寛は消えそうな声で答える。
「ああ、これか。ちょっと考え事しててな」
紗枝はずかずかと光寛に歩み寄り、ダガーを素早く取り上げた。
「ダメだよ。勝手にそんなことしないで」
「紗枝?」
「口調強めに言った私が悪いの。だから、勝手に死なないで」
「え、別に俺は――」
自殺未遂と勘違いしている紗枝に説得しようとしたが、言葉を塞ぐように紗枝は光寛に強く抱き着いた。
「大丈夫。私が絶対にお兄ちゃんを守るから。絶対に、傷一つ付けさせないから。さっきは、あんなこと言ってごめんなさい……。私、頑張るから」
耳元で囁かれた柔らかい声は、光寛の中に巣くっていた醜いものを浄化する。その反動として、光寛の涙腺は一気に崩壊した。
嗚咽を漏らし、止めどなく流れる涙は紗枝の寝巻きに伝う。それでも紗枝はずっと抱擁を続け、宵闇の幽暗を晴らすようにあやしていた。
「――じゃあ今日も行ってくるね」
「ああ。気をつけてな」
次の日から、光寛は紗枝の外出を止めることなかった。兄として誇らしい妹になったのだと納得し、紗枝と共有されている食欲を満たしていた。
玄関が閉められ、光寛は一人残される。
またいつものように帰ってきてくれる。どことなく浮ついた確信と憂鬱が混ざり、いつものように待つことを放棄した。
「今日はちょっとだけ外に出てみるか」
扉を開けると、今にも雨が降りそうな黒い雲が立ち込めていた。傘を持って行かなかった紗枝を心配し、光寛は折り畳み傘を持って紗枝の後を追いかけようとした。
「光寛。どこへ行くの?」
階段を下りた先に、制服姿の千歌が息を切らして立っていた。連絡もしていないのに千歌が家に来ていることに驚いてしまう。
「今から紗枝を追いかけようと思って」
「なら私も行く」
「ずいぶん剣幕だな。もしかして紗枝に何かあったのか?」
光寛は首を傾げるが、千歌はその様子を無視して先陣を切ろうとする。
「貴方の鼻が頼りだから。早く探して」
言われるまでもないと、光寛は嗅覚に全神経を注ぐ。鼻腔に入り込む様々な情報を取捨し、町中のあらゆる悪魔の匂いを探すと、
「……おい、なんだ? この先に一際でかい魔力の塊があるぞ」
使徒ではなく、魔力そのものを感じ取った。しかし千歌にはそのような気配は届いていない。
「私は何も感じないけれど。ここからどれくらい離れてる?」
「距離感がバグるくらい強い魔力だ。たぶん紗枝はそこに向かったと思う」
二人は頷き合い、建物の上へと飛び移り、最短経路で目的の場所へと向かった。
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