第24話 妹の欲望

「ねえアパスちゃん、目の前で寝てるのってお兄ちゃんだよね?」


 カーテンの隙間からの日差しに目を覚ました紗枝が目にしたのは、同じ布団で寝息を立てる光寛の姿だった。ただでさえ狭いベッドに成人男性と密着しているため、いつもより毛布が温い。


 光寛と紗枝の寝る場所は別離している紗枝は1LDKに設けられている寝室にベッドを置いている。しかし光寛はベッドの代わりにリビングのソファーで睡眠をとっている。

 紗枝としては同じベッドでも構わない(というよりむしろやぶさかでない)のだが、兄の前で本心を出せない性が出てしまい、二人は別の寝床を確立していた。


 ゆえに紗枝のベッドで光寛が熟睡しているのは、いろいろな観点から由々しき事態なのだ――――‼


(もしやこの兄、妹が夢を見ている間に既成事実を⁉)

「それは私が何回か実行済みだからお互い様」

(え…………今何と言ったか?)

「まだ未遂だけどね。お兄ちゃんが起きる前まで添い寝して、朝になったら気づかれないようにベッドに戻るってルーティーンを一時期やってたの。でもいつ起きるかわからない、バレたら即日羞恥心顔面パンチ確定の綱渡りが、スリルがあってたまらないの!」


 アパスは呆れと驚愕の区別がつかないため息を吐いた。この兄妹がおかしいことにアパスは慣れている。今更真面目な話をしても栓のないことだと判断し、何も言わないでおく。


「そういえばアパスちゃんの目的も、これで達成なんじゃない?」


 そう言われてアパスはハッとする。

 アパスが紗枝と契約した目的の一つに、人の愛を喰らうことが含まれている。そこで光寛と懇ろになり、その先の愛を得られれば紗枝との契約は満了するのだが、アパスは一歩踏み出せない状態のまま、夜這いもできないでいた。


(たしかにそうかもしれないが、ワタシが求めているのは光寛からの愛である。添い寝ができたとしても、根本的に解決しないと思うのだが。紗枝の外見で近づいても違う気がする)

「そっかぁ。そもそも私の体に依存してるのがダメなんじゃない? アパスちゃんの本当の姿でお兄ちゃんと接触するのが一番だと思うんだけど」

(人間界では人の精神に依拠することでしか存在を維持できない。ゆえにお互いの利害が一致している紗枝の体を住処にしているのだ)

「……じゃあさ、私がお兄ちゃんと、その、イチャイチャしたら、アパスちゃんにも、そういう感覚とか感情って、共有される、わけだからさあ……」


 紗枝はアパスの目的遂行のために、兄との接触の大義名分を得ようとしていた。それをアパスは見透かしたものの、手放すのも惜しいと思ってしまう。


(そ、そうであるな。ミツヒロにとって今のワタシは最悪の印象になっているはず。ゆえに紗枝に頼るしかない! やもしれぬ!)

「でしょ! じゃあ今お兄ちゃんにイタズラしちゃってもいいよね」


 紗枝は寝静まったままの兄の輪郭を手でなぞる。猫を擽るように指先で遊び、次第に唇へと移行する。相変わらず乾燥して割れた唇を、紗枝は恍惚に浸りながらなぞる。


 その時、紗枝の中で《食欲》に似た衝動が沸き起こる。アパスの腹の中にある《性欲》とは違い、特定の人物との愛情を得ようとする求愛衝動であった。

 欲望を抑えられず、紗枝はたまらず兄の体に抱き着き、その唇に吸い付く。貪るように舌を絡ませ、さらなる熱を求めようとした。

 足で兄の体を引き寄せ、密着度を増す。それでも足りないと、今度は光寛の舌の端を齧る。軽く流れ出した唾液交じりの血を呑み込むと、紗枝のタガは完全に外れてしまった。


 光寛も同じ悪魔の血をもつ者である。紗枝は悪魔の好物を口にし、その味を完全に覚えてしまったのだ。


「おいひぃ……もっと、もっと――!」

(待て! それ以上はッ)


 紗枝は《食欲》と《性欲》の区別がつかなくなり、茹だる暑さに悶える体を解放せんと、寝巻きを脱ぎだす。

 さらなる先の境地に手をかけたその時――堰き止めていた何かが外れ、紗枝は夢から追い出される。


「はっ⁉ ゆ、夢……?」


 起き上がって周囲を見回す。隣にはさっきまでいた兄の姿がいない。いや、そもそもいなかったと言う方が正しい。


(ちょうど九時か。夢から覚める瞬間に妙な魔力の波長を感じた。もしかしたらこれはスレプスの仕業かもしれん)

「え、どうして《睡眠欲》の悪魔が? いや、そんなことはどうだっていいよ! あれが夢なの⁉ 嘘でしょ~~~~‼」


 蒸気が噴出してしまいそうなほど赤面し、ベッドの上でどたばたと悶える。

 その騒音を聞きつけたのか、リビングから光寛が駆けつけてくる。


「大丈夫か紗枝⁉ 何があっ、ぶひゅ!」

「な、なんでもない! 全然大丈夫だからあっちいって!」

「おっと! あっぶね。枕投げるほどの元気はあるんだな。よかった」


 投げつけられた枕を紗枝に返し、光寛はリビングへと戻る。

 そこで紗枝は目覚まし時計を見てあることに気が付く。


「お兄ちゃん仕事は? もう九時だけど」

「ああ。本当なら遅刻だけど今日から有給なんだ。なんせ紗枝と過ごす久しぶりの日常だからな!」

「ふ、ふーん…………べつに、私にはアパスちゃんがいるから一人でも寂しくないけどねっ」


 夢の中で欲情と凌辱の限りを尽くした兄を前に、目も合わせられない。まともに会話など到底出来ないため、紗枝としては一日を消費して熱を冷ましておきたかったのだ。


 光寛は紗枝の不自然な挙動に首を傾げるも、何も思い当たらずに邪推だと考えてしまう。


「これから朝食作るから、ちょっと待っててくれよ」


 リビングに戻る兄が去ったのを確認し、紗枝は机の中に入れていた髪留めを手に取る。太陽光で煌めくレジンの球を見つめ、掌にのせて顔を弛緩させた。

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