第15話 夢の世界

 千歌が登校した時から異変は現れていた。


 早朝で人通りの少ない学道を歩き、校門を通り抜ける。

 いつもグラウンドに一人で朝練に励む女子生徒がいる。髪を一つに結び、陸上の競技恰好でトラックを周回しているのだ。

 千歌は登校する際にいつも彼女を見かける。目を合わせることも話しかけることもない。ただ通りすがりに「今日もいるのだろう」と習慣のようにグランドに目を向ける。

 そして今日、例の彼女はグラウンドで倒れていた。千歌は驚愕とともに彼女の元へ駆け寄る。


「ちょっと貴方、大丈夫なの?」


 過度な練習で脱水症状でも起こしたと考えるが、汗は一滴もかいていない。呼吸も正常にしており、いたっておかしなところが見当たらなかった。


「もしかして寝ているの?」

 

 肩を叩いて呼びかけてみるも、まったく返事がない。強く揺さぶっても頬を叩いても目を覚まさない。

 さすがに異常だ。そう気づいた時には遅かった。


「なっ……⁉」


 ぐらりと意識が揺らぐ。思わず片手をつくが、正常な思考は遮断され、意思に反して瞼が閉ざされていく。

 そして千歌は夢の世界へと誘われたのだった。



「ここは、どこ……?」


 気づけば千歌は見慣れない空間にいた。

 まるで白い大きな箱の中に閉じ込められたように、色のない空間が広がっていた。ローファーで床を蹴るも、コンクリートのような硬い音が響きだけ。


 千歌は少しだけ悪魔の血を活性化させる。右拳に魔力を注ぎ、床を殴った。

 破砕音とともに床の表面にヒビが入る。しばらくすると割れた床の破片が磁石に反応したかのように割れた箇所に集まる。細かい破片が穴を埋め、割れ目も完全になくなってしまった。


「魔力が吸収される。悪魔の仕業にしては派手な仕様……上級階位か」


 上級階級という言葉から思い浮かんだのが、千歌が契約しているオーディアだ。いつもくだらない冗談を言う悪魔だが、小学生の時から長い契約を経て、自分にとって家族の代わりのような存在になっていた。

 その彼もこの空間にいない。魔力が使えるため、契約は残っている。そう考えているうちに、いつまでも子ども扱いするオーディアに対する恨みが湧いてきた。

 千歌は先の見えない空間を進み始めた。



          ***



 光寛たちは千歌の通う学校の町に着いた。


「学校に近づくと睡魔にかかってしまう。ワタシたちは少し離れたところから様子を見るぞ」

「わかった」


 光寛はアパスを抱え、垂直跳びの要領で建物の上に飛び乗る。そして隣の建物へと飛び移り、学校の校舎が見えるところまで近づく。


「アパス様と光寛殿! ご報告があります」


 途中でオーディアが浮遊して光寛たちの前に現れた。


「何かあったのか?」

「はい、スレプスの一件を受けて、近くに《支配欲》の手先が――」

「悪魔の匂いだ。三匹。近いぞ」


 オーディアが言い終わる前に、光寛の嗅覚が使徒の存在を察知した。


「オーディアよ。連中は冠位を狙っているのではないか?」

「おそらくそうだと考えられます。《睡眠欲》は三大欲求の中でも大人しいですから。人を眠らせて欲を満たしている間に、本体を叩こうという作戦でしょう」

「本体を叩く、か。すると連中は馬鹿だな。スレプスの本体は夢の中にしか現れないのだぞ」



***



 千歌が白い空間を歩いていると、遠くの方から人の姿が見えた。

 その人物も千歌の存在に気付いたように、こちらに対して手を大きく振る。何かを言っているようだが、遠くて声までは届かない。


 同じく空間に閉じ込められた一般人なのだろうと考え、千歌はその人影に走って近づく。

 するとあちらからも走ってくる。走るのに慣れているかのような綺麗なフォーム、揺れるポニーテール、そして身に着けている恰好から、その人間が陸上の彼女であることに気付いた。


「貴方もここにいたの」

「えっと。どこかで会ったっけ?」


 残念ながら彼女は千歌のことを知らないようだ。もともと千歌が通りすがりに見ていたのだから、知っていなくて当然だ。とはいえあまり変な誤解もされたくないため、初対面を装った。


「いや、人違いだった。なんでもない」

「そう? でもよかったー。わたしと同じ学校の生徒がいて安心したよー」


 強引に手を握ってくる彼女。緊張が解れたように弛緩した笑みに少し涙が滲んでいる。

 一方で日頃から悪魔と対峙する千歌にとってそのような体感はない。それが心強い助太刀に思ったのか、彼女は一層喜んでみせた。


「ああ、まだ名前言ってなかったね。わたし天堂なつみ。三年生です。よろしくね!」

「木下千歌。一年」

「可愛い名前だね。じゃあ千歌ちゃんって呼ぼうかな」

「なんでもいい」


 とにかく陽気な天堂が千歌には煩く、短い返答しかしない。それでも天堂はお互いを励まそうと鼓舞する。


「とりあえずここがどこか分からないけど、なんか仲間も増えたしなんとかなるでしょ!」


 気分の上振れ具合に千歌はついて行けず、わざと

らしく面倒な顔つきをするも天堂はまったく気にしない。


「けどここって不思議なところだよね。風もないし体も軽いし、寒くも暑くもないし。なんなら走っても全然息が上がらないもん」


 そのように感じるのは使徒である自分だけであると千歌は思っていたが、一般人にも同じ影響が及んでいるとなると、ますます現状に対する推理が難航してきた。


「もしかしてこれって悪魔の仕業なのかな……」


 唐突に天堂の口から出た「悪魔」という言葉に、ピクリと体を反応させてしまう。

 それを見た天堂が手を合わせて目を瞑る。


「あ、ごめんね! 不安にさせるつもりじゃないんだよ? ただこんなのわたし初めてだから、どうすればいいかわからなくて。これじゃあ先輩失格だね」


 いつから自分の先輩になったのだろうと心の中で千歌は思う。


「さすがに悪魔が関係していると私も思う。ただそんなことを知ったところでどうにもならない」

「そ、そうだよね! さっすが千歌ちゃん。クールだね!」


 問題は、天堂を連れながら悪魔の力を発揮するかどうかだ。悪魔が人々から恐れられている以上、千歌としては武装状態を他人に見られたくない。


「もしも千歌ちゃんに何かあったらわたしが守るからね」

「好きにして。とりあえず今は出口を探さないと――」


 刹那、千歌の背後に途轍もなく強力な魔力の気が現れる。あまりに強大な魔力に全身を身震いさせてしまう。


 恐る恐る千歌は振り返ると、そこにいたのは小学生と思えるほど小柄な少女だった。純白のワンピースを身に着け、色白で華奢な腕に枕を抱えている。寝起きなのか、瞼が半分閉じた状態だ。少女は地につくほど長い銀色の髪を引きずりながら千歌たちに歩み寄る。


「カワイイ……。ねえ、君も迷子?」


 少女が悪魔だとも気づかずに天堂は膝をついて目線を同じにする。

 咄嗟に千歌は天堂の前に立ちふさがる。


「待って。この子、なんだかあまりいい気はしない」

「ど、どうして? どう見ても普通の女の子だよー」


 天堂は少女に触れようとした瞬間、蕾のように小

さな口が開かれた。


「――どうだ、夢にいる心地は」


 幼い声で耳元に囁かれたように、二人の耳に鮮明に聞こえた。


「……ここが夢?」


 千歌の問いに少女は軽く頷く。


「人は働きすぎだ。一日の半分も睡眠に充てない。それに最近では睡眠を削る輩も見受けられる。それを我が見ているだけなのはあまりにも心苦しい」


 年不相応に達者に喋る少女に、天堂は言葉を失ってしまう。なんとか正常な思考をしている千歌は、相手が悪魔であると認識したうえで聞いた。


「お前は、まさか冠位の――」

「我は《睡眠欲》のスレプス。世に睡眠の極楽をもたらす悪魔だ」

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