第8話 正義への渇望➁
電車を降り、紗枝はバスで住宅街まで移動した。
「この近くだよね」
(ああ、微々たるものだが、あの建物から光寛の匂いがする)
アパスの指示する方向は住宅街の中に林立するマンションだった。
「え、じゃあもしかして悪魔の住処ってこと?」
(光寛以外に、一体だけそのような匂いのもとがいる。慎重に行くべきであろう)
紗枝は悪魔という存在に一瞬だけ恐怖を覚えた。アパスや光寛は人外をはいえ味方であるが、兄を超越した悪魔がいると考えると足がすくんでしまった。
(ワタシが代わる。ここから先は任せるのだ)
アパスは紗枝と精神体を入れ替え、空腹の痛みに耐えながら壁伝いに歩いて行った。
五階建てのマンションの角部屋。その前までアパスは辿り着いた。立っているだけで目の前から強力な悪魔の存在を感じていた。
こちらの存在には気づいていないのだろう。獲物に近づくための能力【狩人】によって、アパス自身の気配を消している。さらに体は悪魔の血の一切流れていない人間であるため、悪魔であるとは認知されないはずだ。
アパスはドアの前まで来て逡巡する。如何にして部屋に侵入するべきか、それとも敢えて正面から生娘面を装って突撃するか。後者に限っては紗枝を無責任に扱うことになるため即時却下となった。
兎角するうちに扉の先から足音が近づいてきた。
(馬鹿な! こちらの存在に気付いたというのか⁉)
階段へと急いで踵を返すが、角部屋が災いして遠い。常に引き籠りに徹している紗枝の体では到底間に合うわけもなく、扉が開けられ、その人物が声をかけてきた。
「そこの貴方、入ってきなさい」
すでに存在に気付いていたかのような口ぶりだ。アパスは観念して振り返ると、扉から現れた人物は学制服を着た若い女だった。
「……その前に貴様に問う。ミツヒロという人物はここにいるか?」
「いる。貴方が彼の契約している悪魔なら、話がある。兎にも角にも部屋に入りなさい」
女は扉を開けたまま中へ戻ってしまう。冷然とした表情から彼女の真意は図れなかったが、アパスに残された選択肢は一つしかない。
アパスは開け放たれた闇の中へと足を運んだ。
部屋に入ると、床に横たわる光寛の姿が目に入った。
「ミツヒロ!」
アパスは飛びつくように光寛の傍に寄り、必死に呼びかける。服は土埃がついており、破れた穴からは切り傷が覗いている。右頬の深い一筋の傷がまだ新しい。
アパスが肩を揺さぶると少しだけ反応があった。
「んん、紗枝ぇ、それは駄目だぁ……」
「この兄、どこまでいけばその気色の悪い病に罹るのだ」
夢の中で紗枝に襲われているのだろうか、うなされていた。アパスは握りこぶしをすぐにでも破顔に叩きつけてやりたかったが、今は拳を抑えた。
その間女は静観していた。まるで二人を会わせてやったかのような態度に、アパスは疑問を呈す。
「ミツヒロの無事は確認した。その前にこれはどういう要件なのだ」
「命はとってやったのに、その恩人に対する態度がなっていないぞ生娘。いや、そちらが本契約の娘とその悪魔か」
アパスは目を見開く。自身の存在を感知するだけでなく、契約の繋がりまで見透かされていることに驚きを隠せなかった。
「この光寛という男に悪魔がついていないのは戦闘のなかで察していた。しかしまさか、男の方が副契約だったとは」
「そこまで見通されては、ワタシとしてはお手上げだ。それで、貴様の悪魔の欲望はなんなのだ?」
――《秩序欲》です。
どこからか声が聞こえた。女からではない。この部屋の上の方から男性のような響きのある声だ。アパスは宙に視線を巡らすが、じっと目を凝らすと姿として浮かんでくるものがあった。
それは浮遊しており、銀色の鎧を身に纏っている西洋騎士の亡霊のようだ。厳かな雰囲気を漂わせていながらも、鎧からはみ出る横太りの脂肪が目に余る。顔は金属のヘルメットで覆われていて把握できない。
「こっちは私と契約している悪魔、オーディア」
「皆さん、お初にお目にかかります。《秩序欲》のオーディアと申します。そちらの花も恥じらう華奢な少女に憑りついているのが《食欲》様でよろしいでしょうか?」
予想外に快活とした声音で、見た目とのギャップにアパスだけでなく紗枝も混乱していた。
「もう何が何やらわからなくなってきたぞ……。ああそうだ、ワタシは
「私の能力【霊体化】によって、人間界でもこの姿でいられるのです。まあ幽霊なのでモノには触れませんし、私が許した者にしか見えておりません。扉の前で貴方がたが来たのを確認したのも私です」
気配を消していても気づかれたのは、霊体化していたオーディアが契約者の女に伝達していたからだとアパスは知るも、根本的な疑問が解決しない。
オーディアは大きく咳払いをすると、敬礼のように右腕を胸の前で水平に構える。
「では貴台もいらっしゃったことですし、本題に移りましょう。単刀直入に尋ねます。《食欲》様、貴台の助力を申し出したい。私たちは貴方がたとの対等な関係を築きたいのです」
から覚めるであろう」
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