第6話 正義への渇望①

 人間の欲求には段階がある。

「マズローの欲求段階説」では生理的欲求を低次元とした、より高次元の社会的な欲求が存在するというものである。


 光寛と契約しているアパスは《食欲》を司るため、生理的かつ本能的な欲求が湧く。そのため人の欲は低次元なものほど抗うのが困難となる。

 それは悪魔も同様である。光寛が契約してからというもの、アパスが食を抜かしたことなど一日もない。一日三食と二回の間食、そして悪魔の血を取り込むことでようやく腹の虫がおさまる。


「ミツヒロよ……ワタシはもう腹と背中に隔たりがない。後は頼んだぞ」


 アパスはこの頃、自身の欲求に耐久するという挑戦をしていた。昼食の時間で腹の虫が五月蠅く鳴いているが、限界まで耐えるしかなかった。


「お前もついに死ぬのか。紗枝が戻って来るなら願ったり叶ったりだな」


 ぐったり床に潰れるアパスを見て光寛はそう吐き捨てる。皮肉でもなく身も蓋もないことを言うため、アパスは床で暴れた。


「貴様、それは契約破棄となり、妹は死ぬことになるのだぞ! 本音がそうであっても、ワタシが死ねばいいなどと軽い気持ちで口にするでないぞ!」

「仕方ないだろ……。ここ数日、使徒がいなくて何も食えてないのは俺も同じなんだから」


 一日一回は悪魔の血の源である使徒を食わなければならない。しかし光寛の嗅覚の利く範囲では、対象の存在は確認できなかった。 

 悪魔の主食となる使徒が三日間欠食の状態、それによりアパスと光寛は極限の飢えに耐えるしかなかったのだ。


「ミツヒロよ、ワタシはもう永くない。一人になっても強く生きるのだ」

「勝手に死ぬな。せめて契約が満了してから死ね」

「嗚呼、リブロースとやら。飢え死ぬ前に食べたかったものだな。あとは回らぬ寿司やキャビア、フォアグラ、トリュフとやらも」

「勤めて二年の銀行員にそんなお高いもん買えるわけねえだろ。ていうか食い物の話すると余計に腹が減る。もう喋るな」


 二人してリビングのソファーでぐったり寝そべる。もはや瀕死状態に近しい絵図である。


「くそっ、こうなったら遠くまで行くしかないか。この場は狩りつくしたって考えると隣町が怪しいな」


 光寛は弱弱しく立ち上がり、よそ行きの恰好をする。休日であればスーツを着る必要もない。動くのに問題のない服装を選び、Suicaをポケットに入れる。


「む、無理するでないぞ、お前が死んでは乙女のワタシは悲しむことしかできぬ」

「お前、弱ると態度が丸くなるんだな。そっちの方が可愛げがあるぞ」


 光寛は無気力なアパスに皮肉を言うと、おぼつかない足取りで玄関を出る。それを見送るアパスは自身の飢餓に限界を感じたため、精神体の紗枝と入れ替わった。


「アパスちゃん⁉ 大丈夫なの⁉」

(すまぬが、ワタシはもう動けぬ。血を取り込むまでは体を返還してやる)


 この言葉を最後に、アパスは言葉を発しなくなった。永い眠りにつくように、アパスの精神体は紗枝の声の届かないところまで沈んでいく。


「お兄ちゃん……お願い、アパスちゃんを助けてあげて」



                 ***


 

 光寛は電車で隣町に訪れていた。昼過ぎの時間帯では乗車人数は少なく、さらに休日ということもあって、人間が街の中心に集中していた。悪魔の使徒同士が殺し合う場所として人が多い所は絶対に避けたいところである。

 駅からバスで住宅街に移動する。ビルが多く立ち並ぶ街とは違い、学校や公園が近くに存在して見晴らしもいい。車通りも少ないため、光寛の鼻も通るようになる。


「……近いな」


 鼻を利かすまでもなかった。

 バスから降りた瞬間にその匂いが光寛を刺激した。人目を憚りながら高速で移動し、匂いの元へと急ぐ。


 着いたのは古びた工場だった。廃工場のようで、壁に所々空いた穴と錆びが目に入る。また張り替えたように部分的に色の違う板が張られている。壁に沿って金属パイプが根城のように絡まっていた。

 工場の様相を眺めながら近づくと、なにやら中から金属音が聞こえる。


「三匹いる。闘っているのか」


 実際の様子はわからないが、匂いの動きから二対一で争っているのが窺える。光寛がまだ彼らに存在を気づかれていない今が絶好のチャンスと考え、慎重に工場の窓を覗く。


 まず目に入ってきたのは人型の使徒三人だった。そして光寛の予想通り、二対一の構造で剣戟が繰り広げられている。二人の方は体型からして男だろう。どちらも刀を持っており、刀身から紫のオーラを漂わせている。

 そして衝撃的なことに、二人を相手にしているのは騎士だった。騎士とは言葉通りの表現であり、彼が全身に纏っているのは銀に光る鎧と両刃のついた剣であるからだ。到底悪魔の使徒とは思えない戦闘スタイルに光寛は騎士にただならぬ脅威を感じていた。


 二人組の男たちは横列の隊形で左右相互にかつ一方的に、騎士へ斬撃を打ち込む。洗練された無駄のない連携に反撃する隙がない。

 騎士はその攻撃を正確に捌き、しかし少しずつ後退を強いられている。

 やがて騎士の背後に壁が迫る。このままでは逃げる場所がない。


(いや、もう少し様子を見るか。隙をついて二人を不意打ちして、弱った騎士を最後

にすれば最適だ)


 二人による鍔迫り合いで壁まで追い込まれてしまう。ギリギリと鈍い金属音が響く。

 騎士に逃げ場のない状況になると、一人が刀を引き戻す。刀を目の高さに構え、騎士の顔面目がけて突きを放つ。

 この場にいる誰もがとどめを刺したと思った。しかし予想外なことが起きる。


 騎士へと放った紫の一閃は、


「なっ……⁉」


 鍔迫り合いをしていた男は驚愕の声を漏らす。光寛も、遠目で何が起きたかわからずにいた。しかし明らかに、騎士に当たる直前で攻撃が真反対に折り返したのだ。

 眉間を突かれた男は無気力に倒れ、あたりに赤黒い血をまき散らす。


 仲間を失った激憤に、もう一人の男は刀を力強く振り下ろした。魔力が込められた紫の一閃が円弧を描くが、騎士に当たる直前で再びはね返る。


「く、あ…………」



 不自然な角度に曲がった刃が男の脳天を真っ二つに分けた。膝がから崩れ落ち、乾いた地面を赤い池が広がる。

 騎士には返り血一つついていない。絶命した男二人を見下ろし、剣を鞘に納める。


 光寛はその隙を逃さなかった。

 咄嗟に男二人の死体に向けて左手を伸ばす。血が活性化し、光寛の左手から大蛇の影が現れる。二十メートル先に横たわる男まで影は瞬時に伸び、牙の付いた大きな口が男たちを呑み込む。

 そのコンマ一秒後、騎士は戻した剣を再び引き抜き、影の首元を綺麗に両断した。

 影は光寛から切り離され、その場に溶けてしまうも、呑み込まれた男たちの姿は残っていない。


「……あとちょっと呑むのが遅かったら阻止されてたな」


 騎士は振り下ろした剣を持ったまま光寛の方へと顔を向けた。バイザーの隙間から覗く赤い眼光が、光寛の視線とぶつかる。


「……貴様も、奴らの仲間なのか?」


 透き通る柔らかな声が工場に響く。その声は女のものだと気づくも、驚愕を噛み殺して応答する。


「俺はただの部外者だ」

「そうか……」


 騎士はそう答えると、剣を握ったまま歩み寄る。質問の流れから、光寛が男たちの関係性を否定すれば騎士は敵意を収めるのが道理だ。 

 しかし騎士は腹を煮え繰り返されたように剣を引きずり、敵意を露わにする。


「お前の食事を邪魔したのが気に障ったのか? だとしたら悪かった。俺は俺で飢えていたんだ」

「貴様は人を喰うのか、それとも悪魔を食うのか――それをここではっきりさせてもらう!」


 騎士は剣を垂直に構えて光寛へと突進してきた。


「そりゃもちろん、同胞の血を食うに決まってるだろ」


 光寛は右手にダガーを実体化させ、騎士との剣戟が始まった。


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