第5話 妹は飢えていた➁
それからというもの、アパスは光寛を寝かしている間、簡易食で昼の空腹をしのいでいた。
「紗枝よ。先刻お前は料理ができると聞いたが本当か?」
冷蔵庫の中を覗きながらアパスは問う。紗枝は誇らしげに言う。
(お兄ちゃんにうまいって言ってもらったよ)
「それはうらやま、誇らしいことであるな」
光寛に褒められるほどの料理ならば、自分の口にも合うのではないかと思案し、アパスはあることを思いついた。
「紗枝よ、ワタシにその料理を振るってはくれまいか?」
「でもどうやって……あれ?」
紗枝の精神は自身の身体から切り離されている状態だ。アパスが常時体の主導権を握っているため、紗枝の意志では体は動かせない。
(ミツヒロが寝ている今なら紗枝に戻ったとしても気づかれまい。一旦お前の体を返還するぞ)
「なるほどね。なんだか久しぶりだなあ、この感じ」
紗枝は一か月ぶりの感覚に少し戸惑うも、すぐさま料理に取り掛かる。
「じゃあアパスちゃんもやりながら覚えてね。まずは――」
早送りすること十分後。
出来上がった料理を見てアパスは絶句した。
(これが……食い物なのか?)
悪魔といえど、毎日光寛の手料理を食べているアパスには人の食べられるものの区別はつく。そのため、目の前でぷつぷつと煙を上げる粘土状の紫色を見て鼻をつまんだ。
(紗枝、お前の嗅覚は正常なのか?)
「え? いたって普通だけど」
感覚は共有されているため、紗枝の嗅いだ匂いはアパスにも同じく伝わるのだが、それぞれの感想は食い違う。
そうなると味覚はどうなるのだろうか。紗枝が美味しいと言ってもアパスとしては泥を啜っているように感じるかもしれない。
「あ、そうだ。お兄ちゃんにも食べさせてみよう。半分だけ作り置きしておこっと」
いくら《食欲》の悪魔であるアパスでも、食べ物の好みは存在する。しかしここで紗枝の料理に対する嫌悪感を出せば、冠位をもつ悪魔としての品格が問われてしまう。
「じゃあ残り半分はアパスちゃんにあげるね」
(あ、いや、ミツヒロと共に食べようと思う。起きるまでワタシは待とう)
「そう? わかった。じゃあ――」
言いかけたところで、自身が再び精神体に戻ることを考えてしまう。
アパスに頼めばいつでも戻れるだろう。視線を巡らすと、ソファーに寝転ぶ無防備な兄の姿が目に入った。
これは絶好のチャンスと考えた紗枝は、足音を消して兄に近づく。
寝顔を晒した兄を間近に見るだけで紗枝は満足だったが、今朝のこともあり、つい魔が差した。
寝顔をつつき、指呼の間まで顔を寄せる。
紗枝がアパスと契約する以前、彼女は兄への本音を言えずに天邪鬼で接し続けていた。そんな自分に紗枝は辟易していた。
今となってはアパスの後ろで兄を観察するようになっている。
いつか兄のシスコンの病が治り、自分から自立する。そうすれば自分の抱えている感情に煩悶することがなくなるのではないか。
紗枝は兄から自分への直接的な愛情表現に応えるのが単純に怖いのだ。兄に対する恋慕は異常だと認識しつつ、それを否定も肯定もできないでいた。
「こんなにもお兄ちゃんが好きなのに、正直になれない私が嫌い。でもアパスちゃんのことを好きになれば、私はお兄ちゃんを正直に好きでいられる。だからね……」
紗枝は兄の唇に軽く触れる。乾いて割れた薄紅色が紗枝の目には甘い蜜を含んだ花弁に映った。
――美味しそう。
その衝動が一瞬だけ紗枝の脳を麻痺させた。
(食わないのか?)
――食べてしまいたい。
食欲を唆す悪魔の一言に、紗枝のなかのタガが外れた。
そして――花弁の上の鼻がピクピクと動いた。
「ん……紗枝?」
花弁を目前に、咄嗟に紗枝は距離をおいた。瞼が半開きになっているのを見て、まだ完全に目を覚ましていないのだと判断した。
「この匂いは……紗枝の手料理か」
憑りつかれたように光寛は半身を起こし、紗枝の姿には目もくれずテーブルに向かう。そして例の粘土料理(便宜上の名称)を見て涙腺を崩壊させた。
「紗枝の料理だあああうああああ‼」
思わず皿に飛びつき、破竹の勢いで粘土を平らげる。
「うままずまままいうままずまい‼」
(ミツヒロが壊れた……)
日本語とは思えない言葉を発し、光寛はテーブルに突っ伏してしまった。気を失ったのだ。
「ほらっ。私の料理うまいって言ってくれたよ!」
(お、おう。そうであるな…………残りもあやつにくれてやるか)
その後紗枝に代わってアパスが光寛をソファーまで運び、気の毒に弔ったのだった。
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