第4話 妹は飢えていた①

「ミツヒロよ、起きるのだ。もう朝だぞ」


 早朝、リビングのソファーで寝ている光寛にアパスが声をかける。

 平日の勤務に加え、夜は悪魔の使徒と覇を競う。そんな日々に訪れた休日。光寛は自身の食欲を抑えることも兼ねて睡眠で体を休めていた。


 しかしそれをアパスが許さない。


「腹が減った! 作れ! メシだメシだ作れ作れ!」


 光寛の腹の上に跨り、必死に揺さぶるが、短い唸りをするだけで瞼は閉じたままだ。

 その様子を眺める紗枝は、空腹に暴れるアパスを宥める。


(アパスちゃん。今日くらいお兄ちゃんをそっとさせておこう? きっと疲れてるんだよ)

「知らん! 聞けミツヒロ。今すぐ起きなければお前の妹を呪い殺す」


 がばっと起き上がり、寝起きとは思えない冴えた目つきでアパスを見つめる。


「飯だな。今作るから待ってろ」

「うむ。それでよい。厚切りベーコンエッグ五人前、ご飯富士山盛りのとろろぶっかけでな。ナハハハ‼」


 従順に動く光寛に満足し、高笑いをするアパス。妹を人質に取られてしまっては、光寛は命令を拒否できない。そのことを承知でアパスは紗枝を引き合いに出したのだ。

 勝手に引き合い出された紗枝としては黙っていられず、アパスの精神体にデコピンをかました。


(こらっ! いくら私が人質になってる設定でも、お兄ちゃんを強制させることに利用しちゃダメって言ったよね?)

「だって仕方なかろう。ワタシは《食欲》の冠位をもつ悪魔。悪魔の血で満腹になっている今、他のもので別腹を満足させなければならないのだ。そもそもそういう契約になっているではないか」

「おい、一人で何ブツブツ言ってるんだ?」


 台所までアパスの独り言が届いていたらしく、紗枝との会話を精神体のみに切り替えた。


(それくらい我慢してよ。悪魔なんでしょ?)

(悪魔だから欲望に従うのだ。強いて言うのなら、欲望への抵抗は死ぬことと同義である!)

(なんか思ったより悪魔って可哀想な生き物なんだね……)


 アパスの陳述に情状酌量の余地があると判断したのか、紗枝はそれ以上を口に出さなかった。



 しばらく経つと光寛の料理がテーブルに並んだ。それをアパスが喰らい尽くす。全てを平らげるのに三分とかからなかった。


「ふうー。ご馳走様なのだ。これでしばらく胃袋は保つであろう」


 満腹になり、食欲が薄れて冷静になると、アパスは自身の行いを悔いた。食欲を満たすためだけに大切な人に休日労働を強いてしまい、ましてや紗枝にも仕方ないと首を振られた。


「ミツヒロ、その、すまなかった……」


 再びソファーで寝始める光寛にアパスは涙目で頭を下げる。


「どうして悪魔のお前が謝るんだよ」

「ミツヒロは疲れていたのだろう? 動きたくもないのに私の食欲のために身を絞って腕を振るってくれた。妹を殺すと脅されなかったらワタシの我儘に付き合わなかったであろう?」


 我よ我よと叫ぶ暴君の変容に、光寛は首を傾げた。


「そんなこと言うなら、どうして紗枝に憑りついてるんだよ。今更思うんだが、俺の身体にすれば問題なかっただろ」

「も、もちろん紗枝の身体でないとお前を従わせることができないからな! だが、なんというか申し訳がないというか……」


 光寛にとってアパスが頭を下げることは天地がひっくり返ってもしないことだと思っていた。

 悪魔が非情であるというのは万国共通の認識である。実際に、光寛が今までに対峙した悪魔たちも、自身の欲に囚われた獣のようだった。

 しかしアパスは、使徒である光寛に降臨しているわけではない。一般人の女子の精神体に住み着き、紗枝という人物のもつ感情で、人間としての感性が与えられているのである。


「きっとこの罪悪感は紗枝のものであろうな」

「……どうして、お前にそんなことがわかる」

「ワタシにはわかる。紗枝が口にできなかった兄への本音や未練が、この身体が教えてくれるのだ。……なあミツヒロよ。お前にとって紗枝はどのような存在なのだ?」


 兄は眠気を忘れて訥々と語り始めた。


「夜遅くまで残業して、帰ってくる俺に紗枝はいつも怒るんだ。お兄ちゃん遅い、身の丈に合った仕事にしろ、腹減って死ぬとこだったとか、散々な言われようだった。でも俺のために苦手な料理をしてくれる。目を合わせるとすぐ俺を罵る。けど本当は俺を心配してくれてるって気づいてるんだ」


 懐古に浸って語る光寛の視線は、天井ではなく、ずっと遠くを見つめているのだとアパスは感じた。


「俺がお前の命令に従うのは、紗枝のために料理を作るのと同義だからだ。まったく、素直じゃないけど可愛い妹だよ。たとえ嫌われたとしても、俺はずっと妹を守り続ける」


 ふっと硬い表情を綻ばせた瞬間を、アパスは見逃さなかった。そして思った。紗枝の存在なしで、アパスとしてこの男を笑わせてみたいと。

 するとアパスの目頭に溜まるものがあった。

 瞬時に顔を背け、その場しのぎに言い繕う。


「ミツヒロは紗枝のために必死であるな」

「常に腹を空かせてねだる奴よりずっと可愛げがある。悪魔のお前には理解できないかもな」

「そんなことは……」


 アパスは悔しかった。自分の欲する愛を得るには程遠い道なりだと気づいてしまったからだ。


「お前は即物的な奴だと思ってたけど、意外とそうじゃないことは分かったさ。というわけで今度こそ俺は寝るぞ」


 自分と紗枝との扱いは同日の談でない。それは契約してからというもの、常に感じる隔たりでもあった。手段が災いしたのか、それとも自分が悪魔だからであるか。その理由が明らかになっただけ今回の謝罪は大きな収穫を得ることとなった。


 その頃、紗枝は精神体で悶えていたのは語るまでもない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る